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2006年6月

(12)独断偏見的教育論

「教育論」というテーマの中で、突然思いついて戦後の子供たちの話をしましたが

戦争が終わって半世紀も過ぎているのに、自分も含めて年寄りたちは みんな誇らしげに子供のころの話をしたがるのです。

戦後の混乱期に 大人たちの苦労は別として、どこの家でも食うものが満足になく、 生活水準が低いからこそ 子供たちは伸び伸びと天衣無縫に遊びまわることができた。

「子供は風の子」という言葉は あの時代の言葉だ。

子供たちのだれもが ある時は「風の又三郎」であり、「東京キッド」であり、「瀬戸内少年野球団」であった。

「いじめ」という言葉なんてなかった、

どこのクラスにも番長はいたけれど、番長は「正義の味方」も兼用していた。

大人が教えてくれないから 自分たちでルールを作って遊ぶ・・・

自分たちで作るルールは みんなが守る。

あのころの 栄養不足で小柄だけど 逞しい精神を持った子供たちと 

現代の子供を比較するのは間違いだろうか・・・

日本人は 第二次世界大戦で 大きな犠牲を代償にしたけれど、

「愛国心」とか「天皇」とか、侠気か狂気?か分からないが、

それを大儀として一丸となった国民が 敗戦によって「理性」を取り戻し、挫折を復興への糧として 繁栄に転化させた。

国を愛する心よりも 人を愛する心が優先するようになった。

日本人はやっぱ凄いよ、賢くて優秀な民族だよ。

戦争に負けたから、生きることの喜びや 平和の素晴らしさ、

働くことの尊さ、へこたれない強さ・・・

色々な大切なことを学んだのかもしれない。

人は 自分が痛い経験をすることで 人の痛みが分かるようになる。

人に優しくしなければ 自分も優しくしてもらえない・・・

敗戦後の 過酷な社会事情や生活環境があったからこそ、 

日本人は ヒューマニズムに目覚め、先進国としての発展を勝ち得たのではないか・・・?

戦後六十年も経った今、日本人は豊かな暮らしに恵まれて、

悪く言えば ぬるま湯につかってしまった我々は ヒューマニズムという「優しさ」の部分を忘れてしまったのではないだろうか?・・・・・

前述したこととだぶってしまうけれど、

最近 ふと考えたことだが、極端で過激な思想かもしれないが、

人類は 「戦争」という殺戮の歴史を繰り返し、

多くの犠牲と悲劇を代償にしながら発展をしてきた。

戦い、傷付け合うことによって文明がグレードアップして、

それと同時に 人の心も「戦争」という行為を反省することによって、

より優しい方向へバージョンアップしてゆくのではないか。

それも 教科書で学んだり 先人から教わる形の反省ではだめなのだ、

身をもって体験する、自分たちが酷い目に逢って 初めて身に沁みることだとしたら、

それならば、“日本は百年に一度くらい、定期的に「戦争」をやったほうがいいのではないか?”という論理にまで 到達してしまうのである。

これは憶測であるが、

国を治めようとする人、歴史的にみれば神武天皇から始まって 頼朝も尊氏も、信長・秀吉・家康も・・、国の主権を握る人物は みな戦いをして多くの犠牲を払ってきたが、

その目的はみな共通で「平和な国を造りたいから・・・」なのである。

人と人が殺しあうようなことのない国にしたいから 戦って人を殺す。

矛盾した理屈だけど、それしか平和への道がないところが 

愚かではあるけれど避けることのできない人間の宿命なのかもしれない。

明治維新後、新政府の要人の中には

「日本を焦土にして新しい国家を建て直す・・」

という思想の人がいたということを 何かの書物で読んだことがある。

それが西郷さんだったか 木戸さんだったか 詳しい内容は忘れたが、

要するに 例えが軽薄だが マージャンなら九種九牌、トランプなら全取替えをするように、日本全体を一度焼け野原にして 貧困も格差社会も暴力も汚職も、すべての毒を洗い流してゼロからやり直し、平和で美しい国につくり直そう・・・

というのである。

今の政治家にも そういう考え方を心の奥に封印している人は少なくないはずである。

“北朝鮮がミサイルを撃つというのなら、日本も核武装をすればいい、

北朝鮮が一発打つなら、日本がその気になれば百発反撃するくらいの力はあるのだ。

だいたい核武装をしていないから 拉致問題にしても竹島にしても、中国の日本大使館の事件や潜水艦の領海侵犯など 近隣諸国から なめられたことばかりされるのだ・・・”

なんてことを発言したいのが本音なのだが、それを言ったらみんなに叱られて、選挙にも負けることが見えているから 冷静を装い我慢しているのだ。

小泉さんの靖国神社参拝問題が賛否両論であるが、

結論から言えば オレは反対だ。

確かに小泉さんの言うように中国や韓国がガタガタ反発する問題ではない、自分の家の仏壇にお線香をあげたら隣の家が文句つけるようなことである。

そんなことで信念を曲げるような総理大臣では 一国の指導者とはいえない。

小泉さんの政治は 始めから国民に高い支持を得てきた。

「公約が分かりやすい」からである。

靖国も北朝鮮にしても、外交は常に「冷静に対話」を強調する。

靖国に関しては、「日本人の心の問題」だというが、

もう一歩踏み込んでみれば、中国や韓国の人にとっても「心の問題」はあると思う。

中国サイドからすれば 靖国参拝批判をひとつの外交カードとしているうちに、それが積み重ねによって 本当に不快なことになってしまう。

納豆を嫌いな亭主が、匂いを嗅ぐのもいやだと訴えているのに、女房が毎朝の食卓に納豆ばかり出してきたら、本気で離婚してもいい・・・というはなしもある。

国の指導者として 平和と国益を目的とするならば、相手が「いやだ・いやだ」と不快感を露骨に表しているのなら、それじゃあ止めてやろうか・・・

というのも「冷静なおもいやり」である。

そんな簡単な配慮で 少しでも仲良くなれるなら それでもいいじゃん、

simple is best だと思うけど・・・、

それこそ素人考えで そんなに簡単なことではないのだろうか?・・・、

でも、小泉さんの政治は シンプルが売りだったはずだ。

また野球の例えになるが、投球術では 打者の内角をえぐるボールは必要だが、最後に決めるのは やはりアウトコースの低めでしょ。

それをしないで、相手が嫌がるビーンボールばかり投げれば 打者もしまいには怒るよ。

イスラム諸国の人たちがメッカの巡礼をするように、

日本国民全員が靖国をお参りするというのが「国民総意」の信念なら、

それを国民の代表者として参拝するのは当然だが、

小泉さんの場合は個人的な信条なのだから、

それも総理大臣になってからのことだから・・・

指導者というのは 己の信念を貫くのは立派なことだが、

自分の言動が 国民の生命や国益に重大な影響を及ぼす立場にいるのだ。

国の平和と安定を守るためなら 例え本意でなくても、

信念の柔軟性を示すというのも 冷静な大局観だと思うが・・。

靖国が原因のひとつになって、万が一にも中国と戦争になったとしたら、

小泉さんは 自分がA級戦犯としてどう責任をとるつもりなのだろうか・・・

それとも、更にもしかして、小泉さんの頭の中に 

“日本の総てをチャラにして 真っ白で新しい日本を造り直そう・・・”

というところまで想定内であるとしたら、これはまた 信長や家康以来の ドエリャア歴史的人物ということになるけど、たぶん そこまでは考えてないだろな、

ただの頑固おやじなのだから、誰に何を言われたって総理大臣であるうちは今年も絶対に行くに決まっている。

ひとつ提案だけど、小泉さんがそんなに靖国神社が好きなら、

年に一度参拝などしないで

元旦から大晦日まで、出勤前に毎日行けばいいんだよ、

たまに行くから刺激を与え、敢えて喧嘩を売っているように解釈されるのだ、

はじめから毎日行っていれば、中国も何も文句言わないと思うけどね。

何だかんだと能書きたれたけど、「戦争」が人間性再生の特効薬になり得るとしても、

やっぱり戦争をしないのが一番だね。

これからの日本は その特効薬を使わずに病気を治す努力をしなければ・・・、

そして、その努力は みんな気づいていないけれども、既に始まっている。

現在の ぬるま湯に浸かってしまった日本人の未来を危惧して、大人たちが何とかしようとする動きがあるのは確かだ。

例えば「愛国心」・・・、

これを法令で文書化して 若い人たちに植え付けようと努力している。

だれだって自分が生まれ育った「母国」を愛する心は持っている、

「住めば都」という言葉があるように、自分の故郷や現在暮らしている地域や町が好きになるのが普通なのだ。

「愛国心」という言葉が 戦前の軍国主義を連想させるからといって、

「郷土を愛する心・・・云々」とか言葉を置き換えたりして気を遣う必要はないのだ、意味が同じなのだから、堂々と「愛国心」という言葉を使えばいいのに・・・

主義・思想は人に押し付けるものではないが、

“国を愛する心”は 教えたり、押し付けたりする性格のものではない。

愛国心は人の心に自然と芽生え、盛り上がっていくものなのだ。

サッカーのワールドカップで日本を応援する、

三月にはWBCの野球で日本中が沸き返る、

オリンピックで日本選手を応援する・・・・、

これらはみんな「愛国心」以外の何ものでもない。

そして、戦争回避の努力にも関わらず、もしも他の国が我が郷土日本を侵略してくるようなことがあれば、

その時こそ戦えばいいじゃないか、

「憲法」もへったくれもない、愛する家族や恋人や郷土を守るために、

愛国心に燃えて一丸となって戦えばいい。

国家というのは「有事」に備える能力を持って、はじめて国家としての資格がある。

国民も心のどこかに いざという時の「心構え」だけは持っておくべきだと思います。

世界中の国の憲法が みんな「戦争放棄」ならば一番いいけれど、

現実は「戦争放棄」を唱えているのは 我が日本国だけなのだから。

そういえば 徴兵制がないのも 日本だけだ。

昔から中立国といわれたスイスだって兵役があるのに。

極端に言えば 日本に徴兵制度があっても世界的視野から見れば何の違和感もない。

例えば、戦争のための訓練という目的の兵役でなくても 「育成期間」とでも称して

若者が社会へ出る前に 必須と選択科目を設定してある一定の期間勉強を義務づける、規律のある集団生活をしながら 社会秩序や法律の基礎を学び、科学や医療の技術を身につけたり、農業や漁業の経験とか 礼儀作法とか、読書やスポーツ、音楽や芸術をさせたり、もちろん武器の使い方も教えたり・・・・、

国が面倒見ながらそういうようなことをやれるような

いい方法はないもんかねぇ。

そうすればニートもフリーターもなくなるし、税金も年金もみんなちゃんと納めるようになると思うけどなあ・・・、

これは オレたち年長者の夢のような考えであるが、

たぶん、この様なことを考えている政治家は沢山いるはずである。

ということは 将来、何十年先か分からないが、

日本も徴兵制度のある国になるかもしれないし、戦争が本当におこるかもしれない・・・

でも 現実に今、日本は徴兵制度のない国だ。

こんなに素晴らしいことはない、日本は世界で一番幸せな国だ。

オレが云いたいのは、

こんなに幸せな国に生まれ、今を生きている若者たちは世界一幸せな環境にいるのだということを認識して、感謝して、がんばれ・・・

ということだ。

世界一強い国アメリカの若者たちを見てみろ、

嫌でもイラクへ送られて、何千人も死んでいる。

日本の若者は、遊ぶことも、労働も、勉強も、恋も・・・

なんでもできる。

チャンスはいくらでもあるし、自分の道を自分で決められる。

腹がへったら 夜中でもコンビニが開いている・・・、

こんなに自由でラッキーなことはないのだ。

洋々たる社会の入り口に立って、自分をどう生かしてゆくか・・・

まあ・何事も本人次第だけどね・・・

「教育論」は もうこのへんでやめようかな、

言いたいことも だいたい言ったし・・・・

自分でも分からないのに 難しい論文書いてるみたいで 疲れるばっかりだし、

これからは「エッセイ」をメインにして 

オモロイはなしを集めてみることにしよう・・・

やっぱり「こまた」の研究みたいなはなしの方が オレには向いてるわ。

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(11)腕白伝

◆伊乃おばあちゃん

オレは典型的な「おばあちゃん子」だった。

おばあちゃんの名は“伊乃”

深川の大工の女房で、オレの母の育ての親だ・・・。

早くして旦那を亡くし、女手ひとつで母を育てた。

気丈で 喧嘩早くて、近所では 怖いおばあちゃんとして評判だった。

母の出生と 伊乃おばあちゃんとの縁については ここでは省略するが、

伊乃おばあちゃんにとっては オレは初孫だし 可愛かったのだろう、

どこの家でもそうであったが 父と母は生活で忙しいこともあって、

何をするにも どこへ行くにも オレは伊乃おばあちゃんと一緒だった。

空襲の時には いつも伊乃おばあちゃんに背負われていたらしいし、

防空壕に非難して、ランプの明かりで父母や近所の大人たちと「花札賭博」をやりながら 空襲警報が解除されるのを待っていたとか・・・、

そのときオレはいつも伊乃おばあちゃんの膝の上にいたそうである。

伊乃おばあちゃんは明治の女で深川育ち、博打は打つし 喧嘩もする・・・・、

あれで 背中に緋牡丹の刺青があったりしたら、まるで「極道の妻」だ。

小学校低学年の頃、オレはおばあちゃんに連れられて 

ヤミ米の買出しに何度か行った。

当時 米は配給制で、配給米だけでは足りないので農家へ直接買いに行く・・・

販売を許可されていない米のことを「ヤミ米」という、

もちろん不法行為である。

買った米を担いで帰る途中で おまわりさんに見つかったこともあった。

おまわりさんと 何だかわからないがやりとりをしたあと、

大丈夫、さあ帰ろう・・・と言って、

オレの手をとり そのまま米を担いで しゃあしゃあと帰った。

おまわりさんを言いくるめたのか、それとも袖の下(賄賂)でも使ったのか?・・・・

ある時 千葉の方の農家へ買出しに行った。

おばあちゃんが農家の人と話をしている間、オレは庭先に干してある乾燥芋を見つけた。

大人たちが話しに夢中になっている隙に、ズボンのポケットに左右一枚ずつ、

その乾燥芋を入れた。

帰りの電車の中で、おばあちゃんと並んで座りながら その芋を出して食った。

おばあちゃんはそれを見て、

「お前 そういうことしたらいけないだろ、・・・・」

そのあとに、

「内緒にしておいてやるから 一枚おくれ・・・」

結局、二人で一枚ずつ食べた。

オレもワルだが おばあちゃんも なかなかである。

立浪梅五郎?だか 菊五郎だか忘れたが・・・

とにかく「立浪一座」という旅周りの芝居小屋が 年に数回、定期的にやってきた。

おばあちゃんは それを見に行くのが楽しみで、いつしか常連になっていた。

今でいう「ヨン様の追っかけ」のように入れ込んでいた。

おばあちゃんが病気で寝込んでいたときに 座長夫婦がチョンまげに刀を差して、国定忠治の舞台衣装のままで 見舞いに駆けつけたくらいだった。

おばあちゃんは この芝居見物だけは 何故かいつも一人で行っていたが、

オレも行って見たい・・・とオネダリして 縁日の時に一度だけ連れていってもらった。

ゴザを敷いた客席の一番前に座って、(カブリツキという)

目の前で繰り広げられる 芝居やチャンバラに熱狂している。

国定忠治が「赤城の山も今宵限り・・・」の台詞をいって大見得をきったとき、

おばあちゃんはお金を紙に包んで舞台に投げた・・・(オヒネリという)

「父ちゃんと母ちゃんに内緒だよ・・・」

これでオレもおばあちゃんに貸しができた。

乾燥芋の件と相殺して 対等になったのである。

一緒にサーカスも観に行ったし、浅草の観音様にも行った。

おばあちゃんとオレは 良き相棒だった。

伊乃おばあちゃんは オレの人生経験の 最初の師匠である。

伊乃おばあちゃんが死んだのは 

春なのに冷たい雪が降る 寒い四月の朝だった。

◆スズメと勝負

昭和20年代、戦後の復興期の子供たちは みんな外で遊ぶ、

かくれんぼ・鬼ごっこ・相撲・チャンバラ・縄跳び・缶けり・野球・・・

そういう体育系の遊びから 夏場はトンボやセミを追いかけ、

ザリガニ釣りやメダカを捕りに行く・・・

東京でも川はきれいだったし、森も田畑も・・・自然がいっぱいあった。

今のようにゲームやパソコンで 家にこもった子供はいない、

食べ物の好き嫌いをいう子もいない・・・

現代よりも ずっと恵まれた幸せな環境だったのです。

メンコにビー玉、ベーゴマにケン玉に・・・

オレは何をやらせても オールラウンドプレーヤーだった。

中でも最も自信のあるのがパチンコだった。

Y字型の木の枝に バネの強いゴムを結んで小石の弾で標的を狙う・・・、

努力と研究を重ね、名人の域に達した。

パチンコに夢中になったのには スズメを撃つという壮大な?目的があったからだ。

ここでもまた伊乃おばあちゃんが関わってくるのだが、

伊乃おばあちゃんと浅草へ行ったとき ヤキトリ屋でスズメを食べた。

ウマイ!・・・と思った。

ホルモンやレバーではない、正真正銘の焼き鳥だ。

子供たちは 甘いものに飢えていたと同様に、「肉」も貴重品だったのです。

スキヤキなんかは月に一度食えればいいほうだった、

池で捕って来たザリガニや カエルの肉まで食べていた時代だったから・・・

スズメなら そのへんにいくらでもいるし、自分で獲ればいい・・・と思った。

パチンコはもともと得意だったが、明確な目標ができるとプレッシャーになるのだろうか、

最初のころは 全然当たらない・・・、

たまに当たってもダメージを与えるほどでなく 逃げられてしまう。

愛用のパチンコに改良を重ね、左右の枝の太さとバランス、ゴムの強さと長さ・・・、そして 射程距離は15mで充分、

更に 最も重要なのは弾が一直線に飛ぶこと、

そのためには弾にする石の形が球状であること・・・・、

大きさと重量も吟味して 限りなく丸い石を何発も集めた。

練習も欠かさない、

毎朝学校へ行く途中、畑の「ねぎぼうず」が最適の練習相手だった、

気持ちいいほど百発百中だった。

「努力に優る天才なし・・・」小学校の先生に教えられた言葉を自分に当てはめて 

自信満々で 納得していた。

ある夏休みの午後、多摩川の河原で いつもの草むらに潜んでスズメの群れを待った。

そしてついに 10mほどに近づいてきた一羽に照準を合わせ 見事に命中したのである。

ヤッタゾ・・・、

大喜びで 倒れているスズメのところへ走った。

弾はスズメの頭に当たり 目玉が飛び出して 死んでいた。

無残なスズメの死骸を見たとき オレは足が竦んだ。

スズメを撃つのが夢だったのに、死んだスズメに触ることもできなかった。

死骸の上に草を何枚も山盛りに被せて、墓にした。

何だか悲しくて 空しくて、泣きそうな気分だった。

オレはそれから パチンコで遊ぶのをやめた。

腕白時代の 淡く切ない想い出だ。

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(10)戦争とこども

またまた“昔のはなし”になってしまうけど、

自分の子供のころは戦後の食糧難の時代だったから、「食うもの」がなかった。

子供たちの遊びは ほとんどが「食うこと」に関連していました。

今回は「戦争と子供たち」のはなしをします。

(教育論のタイトルがもう10個目になってしまった)

オレは東京生まれ、三歳のときに「東京大空襲」があって、防空頭巾という布でできたヘルメット代わりのものを被り、おばあちゃんの背中におんぶされて逃げ回ったそうだ。

三歳のことだから憶えているはずもないが、

花火が上がるように ドンドンパチパチと響く音と、夜空全体が明るく輝いている光景だけが夢の中の幻影のように 今でも脳裏に残っている。

夜空が明るかったのは 米軍の爆撃機(B-29)が照明弾を落とし、焼夷弾(現在のナパーム弾のようなもの)や大型の1トン爆弾を何万個単位で落としてくる、

ドンドン鳴る音は それの爆発音と僅かに抵抗する日本軍の高射砲の音だった。

幼いオレは花火と思ったのだろう、キャッキャとはしゃいで手を叩き、

おやじに「バカヤロ」と叱られたそうだ。

あれから六十年も経ったのに、今でもあの光景が夢にでてくることがある。

暗黒の夜空にUFOかインベーダーか、得体の知れぬ動きの遅い飛行物体が何百も現れて攻撃の準備をしている・・・。

自分にとっては すごく怖い夢だ。

オレのおぼろげな記憶の中で あの時の光景が今は「恐怖」に変わったのだろうか、昭和20年3月の東京大空襲では100万人が家を失い、死者は10万人だという。

戦争は 軍事力とか民族の資質や根性だけで勝てるものではない、

科学水準、資源や経済力、国際的な支持や協力がなければ勝てないのだ。

戦争は 地球上で最も優れた生物である人間がする 最も愚かな行為だ。

自らの驕りと愚行に気がついて 戦争の残酷さを知り、

「我が国は二度と戦争をしない・・・」

日本国憲法で「戦争の放棄」を定めたのは、余程懲りたからだろう。

戦争は残酷だ、破壊と悲劇以外の何ものも生み出すことはない・・・

日本の未来を担う若い人たちは このことをよく認識しなければいけない。

歴史を学ぶということは そのためにあるのだと思います。

小学生のころ、家は多摩川の近くにあった。

同級生の中には 空襲で親や兄弟を亡くした子が何人もいた。

片腕がない子もいた。

多摩川の河原で 落ちていた不発弾をいじって遊んでいたら 突然破裂して片方の腕が吹き飛ばされたという。

戦争は何も知らない子供たちにも悲劇の爪痕を沢山残していたのです。

それでも みんな明るかった。

自分の 子供の目から見て、暗い悲惨な記憶はあまりなかったような気がする。

日本中が復興しようとする 逞しいエネルギーで満ち溢れていた、

誰もが その日を生きること、自分のことだけで精一杯だったから、

悲しいだの可哀想だのと そんなことを考えるヒマがなかったのかもしれない。

子供たちにとっては そのほうが都合が良かった、

今のように 大人に介入されることもなく自由に伸び伸びと遊んでいた。

悪戯すれば 親や近所の大人に叱られることはあったけど、

どうってことはなかった。

ただひとつ辛かったのは 食うものが不足していたことだった。

どこの家庭も ごはんは麦飯、

我が家の庭には葡萄の木を植えて、ナスやキュウリ、イチゴを植えたりして・・・・観賞用ではない、食べる目的だった。

チャボという鶏を一羽飼っていた、

チャボは毎日一個のタマゴを生んだ、

一個のタマゴで オレはご飯を二杯食べた。

「一杯のご飯に タマゴ一個をかけられたらいいのにね・・・」

いつもそう言いながら・・・・。

現代では聞くことのない食卓の会話だ。

どこの家の子も好き嫌いをいう子はいない、

食べられるものは何でもおいしく食べた。

子供たちはみんな いつも腹を空かして、

特に子供には必需品の「甘いもの」に飢えていた。

砂糖が貴重品で、サッカリンとかいう化学物質?を甘味料として代用していた。

トウモロコシかサトウキビか定かでないが、近所の畑に忍び込み、背の高い茎を折ってかじり付き、中から出てくる甘い汁をチュウチュウと吸ったりしていた。

隣の家に二人のお姉ちゃんがいて、オレは随分可愛がってもらった。

大きいお姉ちゃんが仕事をしていて(姉の方をオレは大きいお姉ちゃんと呼んでいた) 時々チョコレートをお土産に持ってきてくれた。

板チョコとかチューブに入った練りチョコとか・・・

子供には 忘れられない 感動的な味だった。

世の中に こんなに甘くておいしいものがあるのか・・・、と思った。

あとで知ったが、大きいお姉ちゃんは「パンパン」だと周囲から後ろ指をさされていたという。 パンパンとは売春婦のこと、進駐軍の米兵を相手に金を稼ぎ、チョコレートをお土産に貰ってきていたのだ。

それでもオレにとっては 今でも忘れることのできない

優しくて素晴らしいお姉ちゃんだ。      

  ◆◆次回につづく◆◆

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あじさい

6月、紫陽花の季節になりました。

紫陽花は お母さんの花です。

オレは23歳のときに母を亡くした。

朗らかで、いつも明るく笑って ・・・・、

働き者で、一生懸命で、オッチョコチョイで、サザエさんみたいで、

貧乏なんかへっちゃらで、みんなに好かれて、

苦労ばかりだったのに、誰を怨んだこともない・・・、

そんな母が死んだとき、あのときばかりはメチャクチャ泣いた。

オレにとっては、人生最大の悲劇だった。

あんなにいい人が、あんなに素晴らしい母が、何故死ななければならないのか、

こんな理不尽なことがあっていいものか・・・

神様は なんてことをしやがる・・・と思った。

悲しさや 寂しさよりも、“悔しさと怒り”しかなかった。

どこにも向けられない怒りを 若さ故か オレは神に向けていた。

神や仏が そのへんにいるのなら、ぶっ殺してやりたいと思った。

神を否定することで 母の死を許せない気持ちを ぶつけるしかなかった。

母のことを語りだしたら きりがないから、もうやめておく。

悔しくて また泣きそうになってしまうから・・・・・。

でも これだけは云っておきたい。

お母さんがいる人は、

“母がいるということが どんなに贅沢で有り難いことか・・・”

ということを よ~く考えることです。

五月の母の日に お母さんにカーネーションをプレゼントするような贅沢なマネを

オレは一度でいいから やってみたかったよ。

悔しいねぇ・・・、

お母さんがいないのだから これがホントのマザコンなのかね。

弱い体に 重ねた無理を

隠していたのか 濃い目の化粧

いくども色を 変えながら

枯れて寂しく散ってゆく

あめ あめ あじさいの雨に

煙るおまえの 白い顔・・・・

渡哲也の「あじさいの雨」、三十代に 毎晩元気でスナック通いをしていたころ、これは母ちゃんの歌だ と思いながら カラオケで唄った。

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日本舞踊の師匠だった母は 発表会の舞台では かなり濃い目の化粧だった。

(写真は「保名」、当時の写真が風化?して使えないのでこれはイメージ画像)

母はイイノホールで この保名を踊った。

ちなみに、保名(やすな)という演目は 陰陽師の安倍保名(あべのやすな)

恋人の「榊の前」の死を悲しみ、狂ってしまった男の踊りで「保名狂乱」ともいう。

これは伝説だけど、その保名と「葛の葉」という女に姿を変えた狐との間にできた子供が 陰陽師“安倍の清明”なのです・・・

(オレのブログは意外と勉強になるだろ・・・、時々本題から脱線する傾向があるけどね、安倍の清明って、何だ?と聞かれても、もう説明が面倒くさいから 勝手に勉強しろ・・・)

保名のように、時代劇でよくある場面で、身分の高い病人が頭に巻いている鉢巻?は、紫陽花と同じ「青い色」という設定である。

母は「青~紫」が好き、特に「紫陽花」が大好きだった。

着物も帯も 舞扇も、手拭いまでも、 あじさいの柄に拘っていた。

オレも そのDNAを受け継いだのか、青系は好きである。

花なら スミレ・キキョウ・青い朝顔・紫陽花・・・やっぱり青系が好きだな。

馬券を買うときも 迷ったら青の4枠だし、

野球もブルーのユニフォーム、地元の横浜ベイスターズだ。

今年も弱くて負けてばっかりだけど、もともと弱いからファンになったのだ。

今月のお散歩は カメラを持って紫陽花を撮りまくろう・・・・

「空と君とのあいだには 今日も冷たい雨が降る

君が笑ってくれるなら 僕は悪にでもなる・・・」

中島みゆきの歌のように 

母の死から四十年・・・、オレは「デビルマン」になりたい・・・、

くらいの気持ちで母への想いを貫いてきた。

何もしてやれなかった母への オレの“仁義”だと信じて・・・。

6月9日、今年も梅雨がやってきた。

朝から傘をさして 紫陽花を撮りに出掛けた。

紫陽花に出逢うと 屈託のない母の声が 聞こえるような気がする。

“人を憎んだり、怨んだりしてはいけないよ・・・・、

悪い人なんて 何処にもいないんだよ・・・”

紫陽花は そういう母の言葉を 笑顔で語りかけてくるのです。

紫陽花を濡らす雨は 冷たくなんかない。

温かくて 優しい雨だ・・・・

引越しから三ヶ月、このへんは いいお散歩コースがいっぱいある、

この街へ来て 本当に良かったと思う。

今回は画像が沢山あるよ、

クリックして「拡大画面」で見てね・・・

カメラが面白くなってきた、また趣味が増えてしまう。

◆◆◆あじさいパレード◆◆◆

Ao01 Ao03 B3 B4

ピンク~赤・白・山のあじさい・・・

Photo Pink2 Pink3 Aka01 Aka02 Aka03

W W2 Shiro0 Photo_1 2 3

ガクアジサイ白・青・・ガキウルサイ

Photo_2 Photo_3 2_1 Gakuao Gakuao02 Gakuao04

Gaki

コイ・カモ・カメ・キモ・コワ!!!・・・・

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美しいもののそばには こんなのもいる・・・

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美ヶ原

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五月二十八日、信州松本へ移住した弟の家へ行き、父と母が眠る先祖の墓にお参りをしてからみんなで美ヶ原へ登った。

オレは東京生まれだが、松本は父の実家である。

市街地でも 湧き水の水場があちこちにあって、

実家の台所にも手を入れていられないほど冷たい湧き水が滾々とあふれ出ていた。

小学生~中学生のころは 毎年夏休みに松本の家へ遊びに行き、スイカやトマトをこの水で冷やして食った・・・、冷蔵庫より冷たいのだ。

松本の湧き水は 北アルプスの天然水だ。

美ヶ原は 子供のころから何度も登った。

むかし、会社の若い仲間で日帰りのハイキングに行ったことがある。

三城牧場まではバスで、そこまでしか道路がなかった。

そこから渓川沿いに水遊びをしながら・・・

そのあと頂上までは 歩いて登る。

バスは半日に一本くらいで、道路はデコボコ、自然のままの山だった。

座布団くらいあるような でっかい牛のウンコとか馬のウンコだって半端じゃない・・・それがあちこちにあったこと、

「王が鼻」の岩の上に立って、天下を取ったような気分で下界に向かって立小便をしたら、

オシッコが霧の中へ散っていったこと・・・、

帰りのバスが走り出して、しばらくしてから一人足りないことに気がつく、

「梅ちゃんがいない・・・」

それでもみんな特別心配もしない、大騒ぎするわけでもなく松本駅前のバスの終点で、もし戻らなくても汽車の時間がきたらそのまま帰っちゃうような雰囲気で待っていると

梅ちゃんが大汗かいて到着した。

「急に腹が痛くなって、トイレへ入っていたらバスが発車してしまったが、下り坂だから走ってきた」という。

平気で待つみんなもすごいが 走って戻る梅ちゃんもすごい・・・

美ヶ原なのに オレにはなぜかウンチとオシッコの思い出ばかりだ。

今は頂上まで道路があるし、頂上には広い駐車場、ホテルやレストラン、美術館に売店に・・・・、すっかり観光地になってしまった。

こんなに変わってしまった美ヶ原は、オラアいやだな・・・

スズランやニッコウキスゲのかわいい花が 牛のウンコのそばに咲いている・・・

それが本当の美ヶ原だ・・・、

時代が流れたのだから オレひとりがダダをこねたってしょうがないけど、

でも、頂上から眺める日本アルプスの景色は 変わっていないから・・・・ 

ま・いいことにするか。

(美ヶ原の眺望)(ビアガーデンから映した松本城)

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子供のころ 父から聞いた話だが、

父が学生時代に 親友と二人でよく美ヶ原へキャンプに行った、

テントで寝ていると 馬がテントの中に首を突っ込んでくるそうだ。

馬は塩がほしいのだという・・・、

その親友(名前は忘れた)は山が好きで、将来は小説家を夢見る 純情で真面目な文学青年だったそうだが、あるとき恋をした少女と美ヶ原の花畑で睡眠薬を飲み、

二人並んで凍死していたという。

心中するくらいだから余程のことがあったのか、

美ヶ原の花畑を選ぶなんて、ポリシーを持って美しく死にたかったのかな・・・、

美ヶ原って、そういう山なのかな・・と思った。

そういえば 小説家で自殺する人は多い、

芥川龍之介、太宰治、火野葦平、三島由紀夫、川端康成・・・

自分が知っているだけでもこんなにいる。

物事を突き詰めて考えていくと、最後には「死」という結論になるのだろうか・・、

オレも公表はしなかったが、若いころは小説家になりたいと思ったこともあって、

学生時代も社会人になってからも 本を沢山読んだりしたが、

どんなにピンチのときでも 死にたいなんて考えたことは一度もない。

自殺しようなんて感覚は全然分からない・・・・、

分からなくていいよな、

そんなのは オレの脳みそでは処理できない感性なのだ。

夜は久々に 弟と二人で松本の街で「こまた」の店へ行き 馬刺しと山菜を肴に

美ヶ原や渓流釣りの話をして 旨い酒を飲んだ。

やっぱり自殺はいけないよな・・・

死んじゃったら 酒も飲めなくなるし、釣りにもいかれない。

翌日、ハイウェイバスを待って、駅前のバス発車場のあるデパートの入り口で

ベンチに腰をかけ、大通りの雑踏を眺めていた。

松本も こんなに変わったのか・・・

美ヶ原も変わったし・・・・

そんなことを考えながら 昨日からの疲労で 再発した腰痛を気にしながら、

ぼんやりと座っているうちに、

“そうだ、梅ちゃんの帰りをみんなで待っていたのは このへんだ・・・”

と思った。

“キップ売り場と待合所の木造小屋があったのは この場所だ・・・。”

四十年も昔の駅前の光景が 咄嗟に蘇えった。

しかし、隣に腰掛けていたおばあちゃんの声で それも一瞬にして消えた。

「すみません、今何時でしょう?・・・・」

八十歳くらいだろうか、品のよさそうなおばあちゃんだ。

オレは携帯電話のモニターを見ながら 

「11時35分です・・・」と答える、

「いまどきは それで時間も見られるですか・・・、

まぁ、便利な世の中になりましたよねぇ・・」

「そうですよねぇ・・」

オレは そう答えるしかない、

これでいい、これが田舎のおばあちゃんなのだ。

お年寄りを大事にしなくちゃ・・・

このおばあちゃんは、 この松本で、古き良き時代の望郷を守っている。

なんだか ほっとした。

“おばあちゃん、元気で長生きしてね・・・”

そう心の中で言いながら 帰りのバスに乗り込んだ。

(美ヶ原の高山植物)

スズラン・ニッコウキスゲ・イワキンバイ・

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コケモモ・ツリガネニンジン・ナデシコジャパン・ノミイクベ

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