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2006年10月

旗印

不良オヤジの歴史うんちく・・・その三

◆旗印

戦国大名の旗印(馬印)は 合戦のときに敵味方を識別するためと 

自軍の士気を高揚させる目的があります。

源氏の白い旗、平家の赤い旗が元祖かもしれないが、

色で区別するだけではつまらない、

時代の進歩とともに何かキャッチフレーズを掲げたほうが格好いい、

ということで戦国時代には文字や家紋をデザインするようになった、

それも合戦に使うスローガンだから「勇ましい」のがいい・・・、

武田信玄の「風林火山」、上杉謙信の「毘」は有名であるが、

織田信長は「永楽銭」、豊臣秀吉は「千成瓢箪」、

後に関が原で徳川家康と戦った石田三成は「大一大万大吉」、

真田幸村は「六文銭」・・・・など、

軍神信仰の勇ましいものとか 縁起を担いだ景気の良いものが多い、

戦いは“死”を意識するものだから 

誰もみな死ぬときくらいは派手に着飾って、美しく死にたいという願望があるのだろう、地味に寂しく死ぬのはいやなのだ。

結局人間は 誰でも死ぬのが怖いのだ。

家康の「厭離穢土 欣求浄土」は 

みんなで死ねば怖くない・・・みたいで、

捨て身で“ヤケクソ”なスローガンが軍勢の士気を上げるには有効だったのかもしれない。

               

小学校の運動会、昭和の時代は「紅組」と「白組」に分かれていた、

紅白というのはお祭りやお正月など お祝い事の色として日本古来の伝統だが、

運動会のように競技という勝負事になると、

紅対白は源平の対抗をイメージしてしまう、

なぜ紅白がおめでたいかといえば、源氏と平家が仲良くミックスして争わず平和な世の中になればめでたいことだ・・・

ということから始まったのではないか?

というのがオレの見解だけど 自信はない。

それとも紅白歌合戦のように 紅は女、白は男を表しているのか?

知ってる人いたら教えてもらいたいな。

オレたちの小学生の頃には源平盛衰記の話を先生に聞いたりして、

男の子は 勝った源氏の白組を希望する子が多かった・・・・、

歴史教育が行き届いていたということだ。

子供たちの声が学校の姿勢を次第に変えてゆき、

平成の現代では伝統的な“紅組・白組”をやる学校は少なくなった、

地域によって色々だけど、

「赤・白・黄色・青・オレンジ・紫・ピンク組?・・・」

ホステスの運動会じゃあるまいし、なんだか分からぬグループの対抗になった。

これならどこが優勝しても公平だと学校が子供たちに気を使うようになったのかな?

孫の運動会で 高学年の騎馬戦を見たとき、「風林火山」と「毘」の旗に分れていたのは 互角の力ということに拘るのなら なかなかのアイディアだと思った。

子供たちが 源氏と平家のこととか、「風林火山」と「毘」の意味とかをちゃんと教わって、理解してやっているのなら もっといい事だと思うけどね。

     

武士の先祖は 源氏と平家からスタートして 

清和天皇を祖とする「清和源氏」と

桓武天皇の「桓武平氏」の二派に区分されるそうである。

北条・足利・武田・徳川は源氏の子孫である。

源頼朝以後「征夷大将軍」を任命された足利尊氏・徳川家康は 

何れも源氏である。 

これは「征夷大将軍」という官位は 永久に源氏が継承するということを朝廷と約束し、慣例化してしまった頼朝の政治的手腕による功績である。

最初に戦国を統一したはずの織田信長が朝廷から拝命した官位は「右大臣」である、なぜならば 織田信長は平家の子孫だからである。

秀吉は百姓足軽の出身だから実力№1になっても 豊臣家に武士の血脈を入れようと自分の妹(朝日姫)を家康へ嫁がせたり(家康にすれば 四十を過ぎたオールドミスは欲しくないよと迷惑な話であったが、それを断れないほど太閤秀吉の力が強かったのだ)

信長の妹お市(浅井長政の妻)の娘 茶々(後の淀君)を側室にしたり、他にも色々画策したが、最終的な官位は「関白」である。

武士の肩書きの頂点「征夷大将軍」というのは 

外国と戦争するときに日本の大将になる人のことである、

秀吉が朝鮮出兵を強行して大陸制覇まで狙ったのは征夷大将軍の官位が欲しくて、 実際に自分が大将で外国と戦っていることを 何とか朝廷に理解させるためのパフォーマンスだったのではないかと思うのです。

なぜそんなに官位とか名誉に拘るのか、

権力者はみんな“見栄っ張り”なのかね、

リーダーの要素には プライドが必要なのも確かであるが、

人命を犠牲にしてまで見栄を張るのは愚かなことだ、

この時の秀吉の行動が 現在になっても韓国や中国からゴタゴタ言われてるし、そんな昔のことまでほじくって 文句いうほうもバカだけど、

木下藤吉郎の頃に一生懸命働いて日本一のサクセスストーリーの英雄となった秀吉も、若い頃の知恵やバイタリティは 日本人に勇気や希望を与えるお手本であったが、権力者となり富を手に入れた晩年は育ちの悪さというコンプレックスを払拭できずに 己の尽きることのない煩悩を露骨に出してしまった。

金銭的に豊かになったのに なんで心まで豊かになれないのかね、

現代でも 似たような人 いるけどね。

    身近にあった野球の旗印

10月26日

今年のプロ野球日本シリーズは 北海道日本ハムが勝った。

巨人から出た岡島が今年は日本ハムでいい働きをした、

あんなに個性があって打ちにくそうな若い投手を巨人はなぜ出してしまうのかと、

「巨人の星」の記事で、オラが言ったとおりになったべ・・・

パリーグの二冠王小笠原がFA宣言して 巨人が獲得に乗り出した、

今年もまた巨人の得意なストーブリーグが始まった。

巨人はまだわかってない、だからダメなのだとあれほど云ったのに

ホンマに懲りないシロウトだね。

なぜ二冠のタイトルを獲った人、ピークの人ばかり欲しがるのかね、

これから「タイトルを獲れそうな素材」を探せばいいのにね。

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ジャイアンツのタオルは新聞屋が持ってきた

タイガースのステッカー、Joshin電気でもらった

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今年もビリだったベイスターズの旗、来年は三位目指してガンバルゾ

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三方ヶ原

不良オヤジの歴史うんちく・・・その二

◆三方ヶ原の戦い

元亀三年(1572)武田信玄52歳、上洛を果たすため三万の大軍を率いて甲府を出発し遠江国を悠々と西進してゆきました。 

徳川家康は当時31歳、自分の浜松城を攻めてくるかと思ったら 

信玄軍はシカトしてゆく・・・、問題にされてないのである。

若い家康はアタマにきた、

俺の領地を挨拶なしで通るのは枕元を土足で歩いてゆくようなものだ、

なめんじゃねえぞ・・・と云ったかどうかは知らないが、

同盟関係で仲良しの織田信長から二千の兵を借りている手前もあるし、家来たちや近隣の武将たちにも いいところを見せたいという思惑もあるし、 信玄軍が通り過ぎるのを手をこまねいて見ているのではプライドが許さない。

ということで、浜松の近く三方ヶ原付近で信玄軍を待ち伏せ合戦を挑んだ。

無視して行軍したのは家康がアタマにくることを計算にいれて 家康の軍勢を外へ誘い出し一気に片付けようとする信玄の策だった、

城を攻めると時間もかかるし面倒なのである。

信長の援軍を合わせても一万にも足りない家康の軍勢は 当時最強といわれた信玄軍の敵ではなかった。

家康軍はコテンパンに負けて総崩れになった、

家来たちを大量に失い、信玄軍の騎馬隊に追われ、必死の思いで浜松城へ逃げ戻った。

逃げる途中でも家康の身代わりになった忠実な家臣が何人も討ち死にした。

城へ戻った家康の馬の鞍に“ウンコ”がついている、

恐怖のあまり馬上でウンコをもらしてしまったのである。

これを見た側近の本多忠勝らが

「殿は恐ろしくて糞(クソ)をもらしたのか?」というと、

家康は「バカ者、これは味噌じゃ、クソとミソの区別もつかんのか・・・」

「クソも味噌も一緒でござるな・・・」

「此度(こたび)の戦(いくさ)はクソミソのボロ負けじゃ・・・!」

家康と一緒に生き残った家来たちは大爆笑した。

自分の恥ずかしい姿を笑ってごまかす家康の“親近感”が

「この情けないわが殿をほってはおけぬ」という三河家臣団の結束力となり、後に家康を戦国レースの最終的勝利者へ導く原動力になったのではないかと考えられるのです。

    

三方ヶ原の合戦は徳川家康にとって人生最大の敗北だった。

家康は城へ戻ったあと 自らの情けない姿を肖像画にして、

このときの負けを胆に銘じ、慢心への自戒とするために 生涯その絵を座右から離さなかったそうです。

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徳川家康がションボリルドルフになった絵

        

笑ってごまかしてはみたものの、自分を守るために命を捨ててくれた家来たちへ 詫びの心、感謝の心、祈る心、そして自戒の心を持ったのです。

「皆と一緒に死にたいが、俺は戦(いくさ)のない平和な国を造る頭領にならなければいけない、その俺のために死んでくれる家来たちのためにも必ず目的を達成して 俺もあとから皆のところへ行くから、すまないが待っていてくれ・・・」

家康は心に誓ったのです。

「厭離穢土 欣求浄土」おんりえど ごんぐじょうど・・・・

以来 この文字が合戦のときの家康の旗印になった。

仏教用語で 娑婆(この世)は穢(けが)れたところ、

阿弥陀仏の作った清らかな極楽世界浄土への往生を切望する・・・、

という意味である。

「クソミソ」という日本語は「最悪でどうしようもないこと」の意味で使われるが、この三方ヶ原の話が語源である。

これがほんとの 不良オヤジの“うんちく”だ。

                   

家康が なぜ咄嗟にこれは味噌じゃと云ったかというと、

戦国武者が戦に出るときは 乾飯(ほしいい・・・乾燥させためし)、梅干、鰹節、味噌など、それぞれが工夫して保存食を携行していた、

家康の場合は“ほしいい”と三河名産の“味噌”を腰の袋にいつも持ち歩いていました。

家康にとってラッキーだったのは、この直後に信玄が病に倒れたため武田軍は浜松城を攻めることなく甲府へ引き返してしまったことです。

家康は 鞍に「ウン」が付いていたと共に、“運”にも恵まれていたのです。

“運が味方する”という言葉があるが、

スポーツ競技や 仕事上の自由競争でも、人間のあらゆる人生ゲームの中で

勝利を左右するのは 実力以外に“運”や“タイミング”というような「偶然性」が大きなウェイトを占めていることを肯定せざるを得ないのです。

もしも信玄が死んでいなかったら、そのまま浜松城を攻撃していたら、日本の歴史教科書は間違いなく変わっていた。

関が原のときも同じことが言える、

小早川秀秋の軍勢が 寝返っていなかったら・・・、

それだけが原因ではないとしても、勝敗はどうなっていたか判らない。

もしかして徳川家康という人は 日本の歴史上最もツイていた人だったのかもしれない。

      

信長・秀吉・家康・・・、戦国時代のヒーローとして 

この三人は何かにつけて比較されるが、

だれが一番偉かったかといえば、やっぱり家康になるのだろうね、

三百年も政権を維持できたのは史上最長だし 半端なことではない、

才能やリーダーシップだけで比べられる問題ではないからです。

信長「鳴かぬなら 殺してしまえ ほととぎす・・・」

秀吉「鳴かぬなら 鳴かしてみせよう ほととぎす・・・」

家康「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす・・・」

後世の人が この三人の性格を比較して詠った句(川柳?)です。

オレの考察では、

信長は独創性に優れたアイディアマンで、古い考え方にとらわれず行動する改革の人だ、

武士でない足軽に 合戦のときの恐怖心をなくすため三間槍(長さが三間5.4メートル)を持たせることを考案した、

たしかにシロウトが喧嘩するときには 短い棒よりも長いほうが有利だ。

鉄砲を実用化して 長篠の戦いではその足軽たちの持つ鉄砲で武田騎馬軍団を破り、武器の工夫で 弱い者(足軽)でも戦いのプロ(武士)に勝てることを証明したのだ、

でも、才能あるが故に人の意見を聴くことはなかった、

基本的に 仕事のできない奴、バカな奴、言うことを聞かない奴は嫌いだった、排除するのに躊躇はなかった、

比較の対象にはならないが、小泉さんが信長に憧れたのは似ているところがあると自覚していたからだろうね・・・、

秀吉はチャンスを活かす天才だ、

知略に優れ 勝負どころを的確に掴み 即行動に移して成功した。

権力者になってからは 小田原城攻めに象徴されるように 力の違いを見せ付けて圧倒する「大寄せ」にこだわった、でもこれは秀吉本来のスタイルではない、若い頃に苦労ばかりしたから楽して勝てる「大寄せ」が彼の理想だったのだ。

家康はどうか・・・、特筆すべきことは何もない、

信長・秀吉、この二人の才能あふれる革命児に比べたら、

能力的には一歩も二歩も譲っていた、

この二人より優れていたところは、

「優しさと平和な国を造ろうとする志」くらいなものだった。

山岡荘八の長編歴史小説「徳川家康」によると、

家康の特徴は 家来に対して気を遣い、論功行賞には特に頭を悩ませ、何かにつけて家臣と相談してから最終的決断をしている。

かといって 家臣に特別優秀な人材がいたわけでもない、みんなで知恵を出し合う合議制というか 三河家臣団は忠誠心と結束力だけは抜群であった。

オレは三十代の頃、通勤電車の中で「徳川家康」全26巻を半年かかって読んだ。

家康の生涯とこの時代の流れが興味深く、面白かった。

家康の「優しさ」をテーマにして、戦国時代を駆け抜けた信長・秀吉・その他武将たちの人間性を追及しているように思えた。

そして、この26冊の本の中に頻繁に出てくる「逡巡」という漢字の読み方と意味を始めて知った・・・、この本を読むまで「しゅんじゅん」という言葉を知らなかったのです。

辞書を開かなくても 物語の内容から「しゅんじゅん」というのはためらうこと、躊躇する意味であることが解った。

つまり、家康も家臣も 他の登場人物も、言葉や行動を起こす前に 自分と相手の関係や状況を気遣い「逡巡」することが多いのである。

三人のタイプをオレ流に結論づけると

信長と秀吉は大穴単勝馬券一本を財布の中身全部つぎ込む勝負師タイプ、

家康は本命の複勝馬券を 少しだけ買うタイプである。

オレの場合は信長・秀吉タイプの勝負をしたいけれど、 

大穴の連勝単式を少ししか買えないタイプである。

それも 資金が少ないので かなり逡巡しながら・・・・

やっぱりオレは中途半端で偉い人にはなれないタイプだということか。

(自分のことはどうでもよかったのだ、また 脱線しそうになった・・・)

司馬遼太郎「覇王の家」によれば

この小集団(三河家臣団)の結束が 強固な徳川政権を樹立させた、

その権力の基本的性格は家康自身の個人的性格から出ていて、徳川家という極端に自己保存の神経に過敏な性格となり、その家が運のめぐりで天下をとり 三百年間も日本国を支配したため、日本人そのものの後天的性格にさまざまな影響をのこすはめになった、

悪く言えば 日本の民族性を 奥歯に物が挟まったような

閉鎖的でケチ臭いものに歪めてしまった・・・

要するに 信長・秀吉タイプが天下を取っていたら、

現代日本人の性格は もっと陽気で開放的になっていたのではないだろうか?

と分析しています。

さすがはオラの敬愛する遼太郎先生だと思った、

今更 暴れん坊将軍がマツケンサンバを踊っても 手遅れだ・・・、

と嘆いているのです。

     ・・・・・・・ つづく

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秋の空

Photo_173 森の散歩道をゆくと、いつの間にかあんなにやかましかったセミの声が消えて、十月になったらコオロギや鈴虫の唄も聞こえなくなった、

秋は空がきれいですね、空を見上げていると人間の存在が小さく思えてしまう。 日本はいいねえ、季節という節目がちゃんとある。

空の色も雲の姿も 季節ごとに変化するからいい、

ハワイがいいといったって、ハワイもグァムも 夏ばっかりで、

ノルウェーやカナダやシベリアは 冬ばっかりだ。

たまに行くならいいけどね、人生を送るなら やっぱ日本が一番でしょ。

日本人の平均寿命が世界一なのは 季節ごとに旬のものを食べていることと、温度・湿度とか、日照時間とか、一年をきっちり四等分して バランスのとれたリズムのある生活環境で暮らしているからだろう。

 

 9月のはじめ、夏の雲が なんとなく秋の顔になってきた。

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              918

              9月18日夕焼け

 

◆9月19日秋の空         瓢箪の実 

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◆9月22日 カボチャ畑のひまわりとコスモス、夏と秋が同居している、

関係ないが、ウルトラマンもがんばっている

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◆天高く馬肥ゆる秋・・・・、

10月2日、無敗の三冠馬ディープインパクトがパリの凱旋門賞で三着、

Photo_40 (ニュースの映像)

先頭にたつのが早い、仕掛けをもう少し遅らせて外から追い込めば勝っていたかもね、でも、武豊はベストを尽くしたしディープもよくやったよ、内容は負けていない、ディープの実力は世界一だ。

今年の有馬記念で引退するらしいけど、それがいい、

お疲れさんと拍手してやりたいね。

 

◆10月7日、前日の大雨と風で埃も汚れもみんな吹っ飛んで、

空気が澄みわたり遠くまで見渡せる。

富士山の見える公園の小さな山頂からの眺望、

右側は丹沢、中央遠くに見える山は伊豆半島だ。

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丹沢に日が沈む・夕陽の左に富士山が・・・雲で見えねえ

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ススキと夕焼けと

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10月8日今度こそ富士山見えた、

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ランドマーク   横浜チャリンコボーイズ  でか犬マンボくん 

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 いつものプールに 毎週一度くらい養護学校の団体がくる、

9月のはじめ頃だった、車椅子に乗った悪い子がいた、

十七~八だろうか、先生より体の大きな女の子が 引率の女の先生に手を上げて 先生の頭を叩きながらヒステリックに放送禁止用語レベルの言葉で罵倒している。

ところが先生は怒らない、優しくなだめている、後から若い男の先生もきて二人で優しくなだめて、やっと静かになった。

何で先生はぶっ飛ばさないのだろう?

オレが先生なら絶対にぶっ飛ばす。

車椅子を蹴っ飛ばして、自分で乗ってみろ・・・と叱ってやりたい。

理由は何であれ 先生に暴力を振るう子の頭を撫でることはない、

知能が低くて話しても判らないのなら 体罰で教えるしかないだろう・・・、

先生がそれをできない世の中になったということなら 情けないね。

心身にハンデキャップのある人たちに 今の社会はすごく優しい。

昔は こういう人たちを街で見かけることは少なかったが、最近はみな堂々と大手を振って歩いている。

弱い立場の人をみんなで励まし、助け、勇気を与えてやるのは良いことだ。

社会が彼らを優遇してやるのが「福祉」だろう。

人並みに生きる権利を教えるのはいい・・・、

でも それだけではだめだ。

彼等には 人の優しさに助けられ、みんなに迷惑をかけるから生きていけるという感謝の心も教えなければだめだ。

プールで遊ぶのもいい、電車やバスに乗るのもいい、中には富士山に登りたいだのスキューバダイビングをしたい人までいる。

プールでは他の客たちが みんな遠慮して彼らに場所を空ける、どこの駅でもバリアフリーにしたり車椅子用のエレベーターやリフトを設置している、

バスに乗れば運転手が汗だくで車椅子を固定し、その間お客たちは発車を待っている・・・、誰も文句言う人はいない。

月に一度利用客があるかどうかも分からぬ障害者向け施設を一般向けに改造してしまって、軽薄なコメントをしたばかりに 泣いて詫びたホテルの社長もいる。

社会のみんなが辛抱して、弱い人たちに協力しようと努力しているのだ。

オレなんか五体満足なのに 富士山へ登ったこともないし、海に潜ったこともない。

オレはハンデのある人を否定しているのではないよ、

彼らへ優しい接し方をする社会を褒めているんだよ。

あの養護学校の先生たちは 若いのにエライよ、オレには勤まらないよ。

真の弱者とは、真面目に働いて、生産して、社会に貢献して、秩序を守り人に迷惑をかけず、生活が苦しくても辛抱しながら権利ばかりを主張せず、税金も年金もきちんと払っている人たちのことだと思うけどな・・・・、

(雨にも負けず風にも負けず・・・みたいになったけど)

でもオレ等は 五体満足だから、それだけでも幸せと思わなければいけないのかな。

また「教育論」になってしまうから、こんな話したくなかったけど、

空を眺めながら富士山に日が沈むのを待っていたら、

なぜかそんなことを考えてしまった。

ところで、北朝鮮は核実験宣言しやがって、これはチョーむかつくね、

何がむかつくかって、金や食料を援助してもらいたいくせに、拉致・偽札・麻薬・ミサイルに核実験・・・悪いことばかりして、国民が餓死してるくせに エラそうにするばかりで「ありがとう」も「すみません」の一言もない、乞食だって食い物もらえば「ありがとう」くらい云う、

北朝鮮の政権は乞食以下だな、あの国は 国とはいえないな、地球のゴミ置き場だな。

聴く耳持たぬものに「対話」も「援助」も必要ない、早くぶっ潰したいね。

北朝鮮では こんなにきれいな秋の空を眺めるよりも 

下を向いて食べ物になる草を探さなければならない国民が可哀相だけどね。

せっかくきれいな空や夕焼けを見ていたのに、むかつく話になってしまった。

オレ最近 欲求不満かな・・・?

来月は紅葉でも撮って 楽しいこと書きたいな。

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川中島の戦い

不良オヤジの歴史うんちく(その一)

◆川中島

千曲川と犀川、二つの大きな川が合流し 流れの衝突する地点に土砂が堆積してできた三角形の中州が川中島である。

世界地図をみると、アマゾン川の河口に流れが分流して地球最大の三角州マラジョ島というのがある。 メコン川が海に流れ出る河口付近にできた広大な中洲をメコンデルタ地帯という、デルタとは三角のことじゃ、(小学校で教わったべ)

アマゾンやメコンの規模にはちょっと負けるが、流れの力で島ができるという理屈からいえば同じだ。

この川中島を舞台にして 甲斐・武田信玄と越後・上杉謙信が信濃の領土問題を巡って戦ったのが「川中島の戦い」である。

このブログの最初のころに「戦いの歴史」の記事で 歴史は数々の“戦い”によって動いてきた・・・、というようなことを書いたが、どの戦いも必ず勝者と敗者が存在するが「川中島」だけは 戦国合戦史上最大の激戦にも関わらず 最後まで勝負がつかない引き分けに終わったことが、日本史を代表する名勝負ともいわれる所以であろう。

歴史事実というのは 残された文献などをたよりに検証し 解明されてゆくものだが、時代の流れとともに 認証が代ったり 諸説があるのは仕方がない、

なにしろ実際に現場を目撃した人はいないのだから、あくまでも現代人の推測の域はでられないからである。

従って オラはここで独自の解釈で薀蓄(うんちく)を傾けることになるけど、

「不良オヤジ」のうんちくだから かなりいい加減なところもあるが、若い人たちが知っておいて損にはならないはずだ。

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 川中島の戦い(天と地と)

川中島の合戦は 天文22年1553~永禄7年1564まで、 

十二年で計五回戦われたが、損害の大小を勝敗の基準にすれば 一勝一敗三引き分け、結局引き分けであるが、結果的には後に信濃を支配したのは甲斐の国だから信玄の勝ちと判定する人もいるが、この戦いによって国力を消耗させたことが 後に武田家滅亡の原因にもなったし、謙信のほうは信濃を支配出来なくても何の不利益もなく、信濃の大名たちに助けを求められ、信玄のような悪いやつを倒してやるという いわば義侠心とボランティア精神を燃やした意地の戦いであった。 

謙信も甲斐の国まで攻められなかったし、

信玄も越後を攻撃することはできなかった。

越後は冬になると雪に埋まる、戦いはいつも雪のない夏場の季節に行われ 冬が近づくと謙信はさっさと越後へ引き上げてしまう、

信玄も雪国越後まで兵を進めるのは得策ではないし・・・、

そういう地理的気候的な条件も長期戦にさせた原因なのである。

更に 信玄には“上洛”という大目標がある。

甲州から京へ上るには東海道コースを通る、東海コースには徳川家康や織田信長等の列強がいる、それを排除することが先決で、信濃・越後を経由する北陸コースを予定するなら何がなんでも謙信と決着をつける必要があるのだが、

わざわざ遠回りはしたくないのである。 

黒沢明の映画「影武者」でもやっていたが、

信玄は上洛途中に病死して目的を果たせずに終わる、

その後、息子勝頼が 織田・徳川の連合軍に長篠の戦いで破れ、

ついに甲斐武田家は滅亡してゆくことになる。

信玄は野心家であり政治的才能もあった、

謙信のほうは実際に北陸コースをとって京へ上り 力の衰えた足利将軍を擁護し、幕府の高官上杉憲政から「上杉」姓を引き継いで 室町幕府最後の関東管領になるが、天下を取ろうという野心はまるでない、

自分が軍神毘沙門天の転生(生まれ変わり)だと信じて、

妻もとらず 純粋な正義感のみで一生を貫いた。

謙信のシンボルマーク(旗印)は毘沙門天の“毘”である。

上杉の姓を引き継いだから上杉謙信で、本名は越後の守護代「長尾景虎」である。

信玄も出家前は「武田晴信」、

シンゲンvsケンシン・・・・名前まで逆で相容れぬこの二人は

晴信と景虎のころから紛争を繰り返していたのである。

どちらかいうと 文献も少なく歴史の表舞台にあまり出てこない越後の謙信よりも

現代人には“風林火山”の旗印で有名な信玄の方がメジャーであるが、

謙信を主人公にした歴史小説、海音寺潮五郎の「天と地と」を読んでから 自分的には謙信のほうが好きになってしまった。

川中島の戦いの特徴は

①十年以上も戦って引き分けたこと

②第四ラウンドは死者一万人以上の激戦になったこと、

③大将同志が一騎打ちしたこと、

それほど入り乱れたスッチャカメッチャカな戦いだったのである。

 

天下分け目といわれる関が原でも 動員数には諸説があるが、東軍七万五千、西軍八万二千、双方で十五万を超える規模だが、どちらも多国籍軍同士の戦いだから 

互いにけん制したり、小競り合いや数千人規模の戦いはあったが、

両軍が同時に全面的な規模で激突したわけではない。

推測だが、戦っている人よりも それを見ている大勢の人を「野次馬」というが、これは関が原で他人の戦いを馬上で見ている武将たちのことをいうのだ。

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川中島最大の激戦は 永禄四年第四回目の戦い、武田二万、上杉一万三千、

9月9日から10日にかけて、双方で一万人以上の死傷者を出した。

前半は先制攻撃をかけた上杉軍が優勢、後半は援軍が参戦した武田軍が優勢だった。

この戦で信玄は自分のブレーン(頭脳)として、最も信頼していた軍師山本勘助まで失うことになる、

勘助は己の提案した戦法が謙信に見破られ 武田軍が苦境に陥った責任をとるために敵中へ突入し壮絶に討ち死にした。      

 

萌黄(もえぎ)の胴肩衣に 頭を白い布で包んだ騎馬武者がひとり、信玄本陣前方に忽然と現れ、 太刀を振りかざし疾風の如く突進してくる・・・・、

なんと その騎馬武者は敵の大将 謙信ではないか!

しかも 唯一騎で・・・!

信玄からすれば「ウッソー、ほんまでっか!???」という状況であったろう。

大将同士が遭遇して一騎打ちになったのは戦国合戦史上 川中島をおいて他にない。

大混乱の中で たまたま旗本が無人になった信玄の本陣、

その一瞬をついて謙信が襲いかかったのである。

謙信は床几に腰かけた信玄めがけて三度太刀を振り下ろす、

信玄は刀を抜く暇もなく軍配で受け止める、

慌てて本陣に戻った信玄の家来が謙信の馬を槍で突いた、

驚いた馬が暴走して駆け戻ってしまったため 間一髪のところで謙信は信玄を打ちとることはできなかったが、

「えかった、これでえかったのじゃ、一太刀浴びせた、オラの勝ちだ・・・」

馬上で達成感に満ちた謙信が嬉しそうにつぶやくところで「天と地と」の物語は終わる。  

三十年も昔に読んだ小説なので 記憶が正確でないが、

例えば「だすけさ・・(ですからの意味)」、「そらて・・(なのだ)」など、

謙信の家来たちの会話は 全て越後の言葉(方言)である。

海音寺さんは そこまでよく調べたものだと感心するのである。

Uesugi_kenshin (上杉謙信像)

鞭静粛々夜過河  暁見千兵擁大牙 

遺恨十年磨一剣  流星光底逸長蛇

べんせいしゅくしゅく よるかわをわたる

あかつきにみるせんぺいの たいがをようするを

いこんじゅうねん いっけんをみがき 

りゅうせいこうてい ちょうだをいっす

江戸時代に 頼山陽の詠んだ「鞭静粛々」の詩は

川中島の第四ラウンド、武田の戦法の裏をかき、松明を焚いて妻女山の本陣に上杉軍がいるように見せかけ、それを追い落としにかかる武田の別動隊一万二千を妻女山へ誘い込み、夜陰にまぎれて河を渡り、夜明けと同時に武田軍八千の本隊側面へ先制攻撃をしに行く謙信の高揚する心を描いた詩である。 

漢詩はやっぱり難しいけどね・・・、

鞭静粛々とは「馬を騒がせないように、全軍が静かに進むこと」である。 遺恨十年磨一剣、「憎いあの野郎を倒すために十年も剣を磨いてきた」ということであろう。

流星光底逸長蛇・・・?何だか分からないけどここが一番カッコいい。

男が喧嘩しにいく時は こういう気概でいきたいね。

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テレビの大河ドラマ「風林火山」で中井貴一演ずる武田晴信が

千曲川を挟んで 初めて長尾景虎の一隊と遭遇する場面がある。

対岸で音もなく 整然とこちらを見つめる長尾景虎の軍勢、

「静かだ・・・・!」

「静かな軍勢は強い・・・我らは心して掛からねばならぬ・・・」

晴信の台詞である。

敵は只者ではない、今まで戦ってきた中で 一番強いかもしれない、

音を立てない静かな軍勢とは、訓練され、規律正しく統制の行き届いた兵だ、侮ってはならない・・・、

後に信玄となる武田晴信が肌で感じたのである。

歴史に「if・・もしも」を云ってもしかたがないが、

戦国制覇の本命といえる信玄が謙信と争わず 同盟でもしていれば、

歴史の教科書は違う内容になっていただろう。

力関係で予想屋をするなら 信玄が◎、信長が○で、謙信は▲、

家康は△くらいか?・・・秀吉はその頃信長の家来だから対象外だね。

(つづく・・・次は徳川家康の「くそ味噌」のはなし・・その他)

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