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2007年5月

泉岳寺界隈(その二)

「泉岳寺」から伊皿子坂を登っていくと 右手にはNHK交響楽団(N響)のビル、トランペットなど金管楽器を練習する騒音?が聞こえてくる。

Photo_120 Photo_128 伊皿子坂

伊皿子を左へ曲がると 緑に囲まれた高松宮邸「細川家下屋敷跡」、

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赤穂義士討ち入りの後 四十七人の侍は松平、毛利、水野、細川の大名四家に分散して預けられ、大石内蔵助ら十七名がこの熊本藩細川家で切腹したのである。

このシーンは映画で何度か見た、白い死装束の侍たちが丁寧に名前を呼ばれると 順次立ち上がり「それでは皆さん お先に・・・」互いに一礼して控えの間を静かに出てゆく・・・・泰然自若とはこのことである。

まるで仕事を終えた人たちが「お先に・・・」と「お疲れ様でした・・」何事も無く日常の挨拶を交わすのと同じなのである。

みんな満足して 清々しく死に向かってゆく。  「サムライ」の一番スゲエところは こういうとこだな。

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◆辞世の句

大石内蔵助良雄 享年45

「あら楽や思いは晴るゝ身は捨つる 浮世の月にかゝる雲なし」

原惣右衛門元辰 56

「君がため思もつもる白雪を 散らすは今朝の嶺の松風」

堀部弥兵衛金丸 77(最年長・・・安兵衛の義父)

「雪晴れて 思ひを遂るあしたかな」

堀部安兵衛武庸 34・・・(赤穂・吉良両軍で一番強かった人)

「梓弓ためしにも引け武士の 道は迷わぬ跡とおもはば」

吉田忠佐衛門兼亮 64

「かねてより君と母とに知らせんと 人よりいそぐ死出の山道」

岡野金右衛門包秀 24

「その匂ひ 雪のあさぢの野梅かな」

村松三太夫高直 27

「極楽を断りなしに通らばや 弥陀諸共に四十八人」

大高源五忠雄 38

「梅で呑む 茶屋もあるべし死出の山」

調べればまだ色々あるけれど この人たちは辞世の句まで詠むからスゲエよな・・・

ちなみに大石主税良金 17 の辞世

「あふときはかたりつくすと思へども 別れとなれば残る言の葉」

今どきの17歳で こんなこと言う子 いるか?・・・・

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細川邸の閉じられた門前に書かれている文字「正義を愛し名節を重んずる者は暫くここに歩を停めよ 此処は徳川時代細川邸の跡 実に赤穂義士の総帥大石良雄等十七名が元禄十六年二月四日壮烈な死を遂げた現場である」

門の隙間から中を覗くと苔生した大きな岩が見える、あの岩のあたりで切腹したのだ。

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すらりとしたリクルートスーツのお姉ちゃんが立ち止まり 私と同じように門前の文字を読んでいる、携帯を取り出し写真を撮っている、

エライ・・・・! 若いのに ここに歩を停め写真まで撮っている、             あんたはエライ・・・、

赤穂義士に心を動かす若者がいたのが なんだか嬉しいね。

静かな新緑の中 お互い無言で なにかに憑かれたように暫し佇み シャッターを何回も押していました。

キレイな姉ちゃんだけど ひとつだけ気に入らないのは オレより背が高い・・・!

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泉岳寺界隈(その一)

歴史の散歩道

◆高輪泉岳寺界隈

都営地下鉄泉岳寺駅を出ると 国道15号線沿いに史蹟「高輪大木戸」がある。 

この斜め向いが「テイケンビル」、私はここで四十年の会社員現役時代を送った。

学生時代のアルバイト期間を入れれば四十二年も泉岳寺へ通勤していたことになる。 入社したころは独身社員寮で一年間暮らした。 高輪泉岳寺界隈は 有名な赤穂義士四十七人の墓所「泉岳寺」をはじめとして 歴史的に意義のある現場や史跡が数多く点在する。

人生の大半を過ごしたこの由緒ある街は 私にとって誇りとする“ふるさと”のひとつである。

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高輪大木戸跡

5月12日、OBの仲間と酒を飲むため約一年ぶりに高輪へ。

二ヶ月も前から あちこちへ連絡したり、会場を予約したり・・・こういうことになると テキパキと迅速に行動できるのはなぜか?  早いはなしが 宴会がしたいだけのことだが、高輪へのノスタルジアもあるからだ。

夕方五時集合なのに昼過ぎには三田駅に到着、田町をスタートにして 今回は泉岳寺界隈の史跡巡りです。

     

三田駅の近く15号線沿い第一田町ビルは薩摩藩蔵屋敷跡「勝と西郷会見の場」

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同じ15号線沿いの泉岳寺駅前「高輪大木戸」は 会見に先立ち勝海舟が西郷隆盛を出迎えた場所である、

江戸の出入口高輪大木戸は 東海道品川宿の関所というほど大袈裟でないと思うが 電車でいえば改札口のようなもので、そこへ勝さんが西郷さんを迎えに行ったのだろう。

現役のころはそんなこと興味もなくて、大木戸の石垣は日本食堂へ弁当買いに行くときに歩道に何だか知らないが邪魔くせぇ障害物がある・・・

くらいにしか思っていなかった。

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そして有名な泉岳寺、浅野家菩提寺である。

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泉岳寺は会社の事務所から五分もしない地元だから 12月14日義士祭の縁日や 平日でも何度か見学したことはあるが 義士の墓にお参りをする目的で訪れたのは今回が初めてだ、そういう気持ちになるのは年寄りになったということか?

一束百円の線香を買ったのも初めてだ、

陽射しが強く穏やかな午後で人影も少なめだが、

義士の墓は相変わらずモウモウとした線香の煙に包まれていた。

深々とお辞儀をして手を合わせる老人がいる、

絵になる・・・

オレもあんなにして素直に手を合わせることが出来るかな?                    なんて思ったがまだオレはそこまで出来ない、照れくさい・・・・、

でも心の中では真摯に合掌している。

Photo_107 浅野内匠頭長矩

Photo_108 長矩夫人遥泉院

遥泉院の墓が一番立派、女性は偉大だ・・・右のおじさんが線香を売っている。

    

四十七人の墓石の前に 二~三本ずつ線香を置きながら墓石に刻まれた名前を読んで歩く、

堀部安兵衛・不破数右衛門・赤垣源蔵・矢頭右衛門七(この人は17歳だ)・・・、

屋根付きで少し大きめの大石良雄の墓石は黒く変色して文字が見えない、

三百年間も 線香の煙で燻された燻製(くんせい)になってしまっているのだ。

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たちこめる線香の煙の中で 熱いものが心を巡っている、

涙が出そうなのは 煙のせいだと思うけど・・・?

三百年以上も経っているのに まだこれだけの線香を絶やさない四十七人の侍たちを前にして、なぜかオレは感動している・・・。

オレも日本人だ・・・心がジンジンしている。

あ~ よかった、

来て良かった・・・・(^.^)

次にここへ来るときは 素直にアタマを下げて、心ゆくまで合掌しよう・・・

と思いました。   つづく

Photo_113 大石良雄像

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山岡鉄舟(その二)

◆江戸城無血開城

堅いはなしになってスマンが ここでまたちょっとだけ歴史のお勉強です。

明治維新とは? 

解りやすく言うと 徳川幕府による幕藩体制から明治政府による天皇親政体制への転換をいう、英訳はメイジ・レボリューションMEIJI EVOLUSIONです。

大政奉還(十五代将軍徳川慶喜が統治権を天皇に返還したこと)、

廃藩置県(地方政治の藩を廃止して中央管理下の府・県に一元化したこと)など、

昨今の郵政民営化なんてものじゃない、短い期間に体制・法律・税金・教育・住所表示・服装やヘアスタイルまで・・・「文明開化」というキャッチフレーズのもとに様々な改革が実施されました。

江戸時代、徳川幕府による ある意味平和な時代が三百年も続いたため

合戦を本業とする武士階級がヒマになってしまった、

武士のリストラや雇用制限が相次ぎ、何だかんだで浪人(失業者)が増えつづけた。

“武士は食わねど高楊枝”(めしも食えない貧乏なのにプライドが高いから楊枝をくわえて食ったふりをする)というのはこの頃の武士を揶揄したことばである。

ペリーの黒船来航をきっかけに 幕府に対する不満や外国に対する不安感が広がり、諸外国の圧力に対抗するには徳川幕府では頼りないから やはり日本人は天皇を頂点として一致団結するしかない・・・「尊王攘夷」の思想が明治維新のエネルギーとなりました。

そして 新しい日本を造ろうとする革新派(薩摩・長州など西国列強)と

徳川三百年の御恩を律儀に守ろうとする保守派(会津など奥羽同盟)に二分され、

鳥羽伏見の戦いを緒戦とする戊辰戦争へ突入したのです。

勝敗のポイントを握ったのは「王政復古」の号令を唱えた薩摩の大久保利通・公家の岩倉具視らの画策で 明治天皇から「官軍」のお墨付きをもらって錦旗(朝廷の旗印)を掲げた薩摩長州軍が勝利するのです。

一万五千の幕府軍が五千の薩摩長州連合軍に勝てなかったのは 近代兵器の差もあるが 幕府軍の侍たちが“錦の御旗”を見て 戦意喪失してしまう日本人特有の伝統的体質が原因のひとつにもなったのです。

鳥羽伏見の戦いに敗れた幕府軍は 総崩れとなって東へ逃げた。

東とは江戸である、江戸を拠点に体勢を立て直し 再び一戦交えようと新撰組などを中心とする過激派は まだまだやる気満々であったが、

江戸城内では 幕府の大将海軍奉行勝海舟の腹は決まっていた。

“時代の流れを食い止める力が徳川幕府には もうない、

これ以上日本人同士が戦って 日本の国力を落としては外国の圧力に対抗することが難しくなる・・・(尊王攘夷の思想は海舟も同じなのだ)、武士の意地だけで戦えば 不幸になるのは庶民ばかりだ、俺たちが刀を納めれば江戸の市民に犠牲者が出なくて済む“

山岡鉄舟に心を打ち明けた、 鉄舟も考えは同じだった。

「俺が南洲(西郷隆盛)のところへ死にに行こう・・・」

この使者は 鉄舟しか適任者がいないことを鉄舟本人も自覚していたのである。

海舟は西郷隆盛と和平交渉がしたいが 大将が直接出向くわけにもいかない、

そんなことをすれば過激派の暴発を諌めることができなくなる。

有識者の大局観からすれば人々の命と平和を守ることが真の正義で、 

武士の信念と忠誠心に燃える近藤勇や土方歳三は最早厄介者扱いなのである。 

その段取りとして 先ず過激派(新撰組)を江戸から遠ざけるため 甲府城の守備「甲陽鎮部隊」という肩書きを与え甲州(山梨)へ送った。

一番一生懸命やった者が放り出されることになる・・・それに気がつかぬ新撰組も哀れだが、冷たい処置を決断しなければならない海舟も辛かったはずである。

実際には それでもまだ上野の山に少数過激派が立てこもったが(彰義隊)一日で鎮圧されてしまった。

幕府は戦わないで江戸城を明け渡す、市民を巻き添えにしたくないから官軍も江戸の町へ大砲を撃たないでほしい・・・、という趣旨を事実上の大将である官軍の参謀西郷隆盛に伝えるために江戸へ進撃してくる官軍の本陣めざし 鉄舟は単身東海道を西へ逆走したのです。

駿府(静岡県)の西郷隆盛本陣へ到着したとき

「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄舟まかり通る・・・西郷さんに会いたい、案内をお頼み申す!」

馬上から大音声で官軍兵士の中を進んでいきました。

どうせ死ぬなら武士らしく堂々とした態度で死のう・・・

鉄舟は腕に自信もあったが死ぬ覚悟もできていたから、あまりにも悠々とした姿で官軍陣営の中を通って行くので、兵士たちのほうがビビッてしまって 銃を向けることも出来ずに「どうぞこちらへ・・・」の感じで 丁重に西郷本陣へご案内したのです。

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後に西郷は「金もいらぬ 名誉もいらぬ 命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられぬ・・・」と賞賛した。

そして 官軍の江戸総攻撃を目前にして 西郷隆盛と勝海舟の会談が実現、当時の百万都市江戸は戦火から免れたのです。

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戦争で敵兵を沢山殺す活躍をして 味方を勝利に導く功績のある人は「英雄」と呼ばれ歴史に名を残します。

私は平和主義的反戦論者ではないが

沢山の人を傷つけて国を統一した人よりも 戦わずに沢山の人の生命や生活を助けた人が 真の英雄だと思うけどね、

なのに なぜか山岡鉄舟も野口英世も・・・探せばまだ沢山いるはずなのに、

こういう人たちが歴史年表や教科書で 大きな扱いを受けていない。

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鉄舟は清水の次郎長から こういう話を聞いたことがあった、

「てめぇ(自分のこと)より強ぇ相手と心底勝負するときは 

てめぇの命は捨ててかからなければ勝てっこねぇ、

相手を殺ろうとか 得しようとか 生き延びようとか、

ケチな考えがこれっぽっちでもあったら 喧嘩はハナから負けている・・・」

剣の師匠である鉄舟が 弟子の次郎長の喧嘩哲学に耳を傾けたのも 若き日の鉄舟に謙虚な向上心があったからである。

もしも次郎長の言葉が 鉄舟の覚悟と行動に影響を及ぼしていたとすれば 清水次郎長というヤクザ者も 江戸百万市民を救った陰の功労者になるのである。

 

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山岡鉄舟(その一)

◆赤胴鈴之介

赤胴鈴之介という人気漫画があった、

♪剣をとっては日本一に 夢は大きい少年剣士

  親はいないが元気な笑顔 弱い人には味方する

  がんばれ強いぞ 僕らの仲間 赤胴鈴之介・・・

昭和三十年代頃だったかな・・? テレビアニメにもなって、このテーマソングを知らない子供はいなかった。

秩父の山奥で生まれた鈴之介は 幕府転覆を企てる鬼面党の首領銀髪鬼に両親を殺される、父の形見の赤胴をつけて日本一の剣士になる夢を持って江戸へ・・・

千葉周作道場で修業の末、秘剣「真空斬り」を完成させる。

江戸市民を恐怖に陥れる悪逆非道な鬼面党が送り出す怪人を次々に倒し、最後は親の仇銀髪鬼を討って、江戸の街に平和が戻る・・というようなストーリーです。

ウルトラマンが毎週怪獣を倒し、仮面ライダーがショッカーの怪人と戦うのと同じようなパターンだけど これが当時の子供たちに大人気であった。

登場人物は 千葉道場のライバル「稲妻斬り」の竜巻雷之進、

恩師千葉周作とその娘さゆり、鈴之介を指導する剣の達人浪野十三、

鈴之介の親友で幕府の隠密柳生一太郎・・・など、

作者の武内つなよしさんに聞いたわけではないが、

この赤胴鈴之介のモデルになったのが山岡鉄舟である・・

な~んでか?

山岡鉄舟・・・幼名は小野鉄太郎、天保七年(1836)飛騨郡代小野朝右衛門高副(おのあさえもんたかとみ)の五男として生まれた。 

郡代とは 幕府が直接支配する領地(天領)へ中央から派遣される役人のことで、

時代劇でよく出てくる代官は六万石平均を差配するが 飛騨一国は十一万石の天領だから 事実上は大名と同クラスであった。

鉄太郎はここで少年時代を過ごし 大好きな剣術の稽古に励む。

17歳のとき両親が相次いで他界、剣で身を立てる決心をして江戸へ・・・。

北辰一刀流千葉周作の神田お玉ケ池玄武官道場の門弟として鍛錬の日々を重ねる。

剣術は天才的に強かった、若手では右に出るものはいない。

鉄太郎の夢は日本一の剣士、彼の青春は「剣術」しかなかった。

鉄太郎は 千葉道場へときどき稽古にくる山岡紀一精山という侍を尊敬した、

無敵の鉄太郎が どうしても精山だけには勝てなかったのである。

鉄太郎は精山の弟子になるため 山岡家の居候になった。

山岡家には 精山の弟で槍の名人精一(後の高橋泥舟)、精山の妹お英とお桂がいた。

鉄太郎は姉のお英さんと恋をして 精山の死後山岡家の養子としてお英さんと結婚、「山岡鉄太朗」と改名したのである。

小野家は大名クラスの名門で 山岡家は武士ではあるが身分が低く釣り合いが取れぬ・・、周囲の反対を押し切って婿養子になったのは 剣を志す鉄太郎にとって精山は敬愛する師匠であったことと お英との恋の両方だった。

鉄太郎は 武家の古い因習に目もくれない進歩的な考えを持っていた、

お高くとまったり 見栄を張ったりしない、

町人とも気さくに付き合ったから 清水の次郎長との交流も始まったのである。

ホントのところは知らないよ、お英さんが好きになったから精山先生のところへ押しかけたのかもしれないし・・・オレだったらそうなるけど 

そういう考えでは日本一の剣士は無理か?

京へ上る浪士隊(のちの新撰組)の世話役になり、

戊辰戦争のときには 徳川の使者として単身官軍の本陣へ乗り込み 勝海舟と西郷隆盛会見による江戸城無血開城を実現させて江戸市民を戦火から救った。

後にはついに剣の道を究め「無刀流」の開祖となる。

明治になってからは静岡県知事、明治天皇の侍従などを歴任・・・

波乱万丈の生涯であった。

鉄舟は剣・禅・書の達人として知られ、

勝海舟・高橋泥舟と共に「維新の三舟」と呼ばれる。

鉄舟は「号」である。

鉄太郎と鈴之介の共通点

一、山奥に生まれ、両親を早く亡くし、日本一の剣士を志して江戸の千葉周作道場で修業する。

二、鉄太郎の「無刀流」がどんな剣法か知らないが、刀を使わないという意味だとすれば 気合で相手を倒す鈴之介の「真空斬り」は これこそ無刀流である。

三、山岡精山は鈴之介を教えた浪野十三で、お英さんは鈴之介に恋をするさゆり?

四、鉄舟は官軍の江戸総攻撃から市民を救う、                鈴之介は鬼面党から江戸市民を救う。

五、町人と気さくに付き合う鉄舟の明るさは 元気な笑顔の少年剣士鈴之介だ。

・・・ということで、山岡鉄舟のストーリーをマンガにすると やはり赤胴鈴之介になるのだ、マチガイナイ・・・!

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ところで、北辰一刀流の創始者千葉周作は 稽古で相手を傷つけないための竹刀を考案、江戸時代まで人を斬るための剣術を スポーツとしての「剣道」に発展させた人です。

柔術を柔道にした講道館の創始者加納治五郎のような人だと思います。

玄武館道場は 幕末の超一流名門道場として全国からの門人も多く、

山岡鉄太郎、清河八郎、山南敬助(新撰組幹部)などのほかに 坂本龍馬もここで習ったことがあるそうです。

物語の世界では丹下左膳や平手造酒も千葉道場出身ということになっています。

片目片腕の丹下左膳に 結核の平手造酒・・・重度の障害者と重症患者、二人ともボロボロの人生だが 若き頃は千葉道場という由緒正しい名門に学ぶエリートであったということを原作者は伝えたかったのであろう。

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清水の次郎長(その三)

歴史小説には 現代にも通用する面白い話が沢山あります。

映画やテレビドラマで 物語の内容がどう描かれるか?

その登場人物が自分と違うイメージだったり、脚本家や映画監督や役者の個性によっても 違いがでてきたりします。

原作を知らないでドラマを見るよりも 原作を読んでおくと興味が広がるのです。

清水次郎長も大政も実在の人物だが、その他の子分たちは 似たようなモデルはいても 物語の中では夫々が興味深く味付けされてゆくから どこまでが事実かは疑わしい。

森の石松は片目だが、本当に片目だったのは三保の豚松という説もある、

居合切りの名人小政は元魚屋で、鉄砲鍛冶の関東綱五郎は一発だけ弾の入った拳銃を持っていたということを知る人は少ない。

次郎長の場合は お蝶さんに愛され 子分たちに信頼され 民衆にも慕われる人気者だから、その人間性を過大評価されて後世へ語り継がれたとも考えられるが、それなりの魅力を備えていたことは確かである。

男に惚れられるような男だから 女にもモテるのである。

次郎長は五十歳を過ぎてからも 賭博一斉取締りに引っかかったが 明治政府の要人榎本武揚や山岡鉄舟らとの親交があり、三代目お蝶さんが当局へのコネクションを使って奔走したおかげで 何とか釈放されたというような記録もあるから いい歳こいても博打だけは止められない、所詮は懲りないヤクザ者であったことは否めない。

こういう不良性?というか 完璧とはいえない部分が人に好かれる要因になるのである。

現代でも同じだね、

リーダーは 基本的にアタマが良くて能力の優れた人でなければ務まらないが

上司がアタマ良すぎて完璧だったりしたら 職場はピリピリして息苦しくなってしまう。

多少のボケやドジをする上司のほうが なぜか人気があって部下も能力をだせる。

(そのボケにも程度の問題はあるけどね・・・)

部下の能力を発揮させるのが上司の能力である。

忙しいとか やりづらいとか 疲れるとか・・・

仕事帰りの居酒屋で上司を肴に酒を飲める職場は どちらかいえば幸せで、文句や愚痴をいいながらやっているのが 一番いいときなのです。

リーダーの側からみれば 支持率30%なら合格、50%なら大成功である。

人間社会とはそういうところだ。

嫌われたっていいじゃないか・・・の勇気があれば、本当の自分が見えてくる。

最終的には 自分を理解してくれる友は一人か二人いればいいのだ。

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次郎長は 幕臣屈指の剣術家無刀流山岡鉄舟に稽古をつけてもらっていた、

次郎長のほうが年上だが 若い鉄舟を文武の師と尊敬し

鉄舟もまた次郎長の人間性を高く評価していた。

山岡鉄舟は あるとき親友の勝海舟とこんな会話をしている。

鉄舟「俺の弟子に清水の長五郎という博打うちがいるが、これがなかなかの人物だ、礼節重く 人情厚く、子分や町人たちに損得勘定抜きで慕われている・・・、人心を掴むことについては旗本の俺たちなぞ足元にも及ばない、 

剣の腕はまるで素人だが 一直線の気迫で打ち込んでくる、

道場では赤子扱いだが 真剣では立会いたくないな、なにしろ俺は人を斬ったことがないが 奴は人を斬ったことがあるからな」

海舟「そりゃお笑いだね、お前さんほどのサムライでも一目置く町人がいるってぇのは嬉しいね、日本は面白くなりそうだ、これからは家柄や身分じゃねぇんだ、サムライだけが政(まつりごと)をやる時代じゃねぇってことだよ・・・・」

(勝海舟は武士なのにベランメエ口調で喋る、江戸っ子だということもあるが武家社会の古い格式が気にくわねぇ・・のである)

徳川幕府の重役(海軍奉行)勝海舟と 同じく徳川の直参旗本山岡鉄舟、

保守的な幕臣の中にあって、柔軟な思想の二人は このとき既に封建制度の終焉と民主主義の到来が近い将来に迫っていることを予感しているのである。

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ところで 勝海舟と山岡鉄舟って、歴史的にどんなことをした人・・・・?

時代が激変するときは必ずヒーローが出現する、

世の中は手をこまねいて見ている人ばかりではないのです。

幕末~明治維新、日本史上最も激動的な時代に活躍したのは

坂本竜馬・西郷隆盛・木戸孝允・・・など、まだまだ沢山いるけれど、

後に高く評価され ヒーロー扱いされるのは どちらか言えば徳川幕府を倒して明治維新を成し遂げた改革派の人たちです。

私の子供の頃は 鞍馬天狗にやっつけられるのはいつも新撰組で、坂本竜馬や桂小五郎はいつも善玉で 幕府の侍はいつも悪役だった。

どうしてか?・・・

単純に言えば 薩摩・長州の官軍が勝って徳川の幕府軍が負けたからです。

「勝てば官軍(勝ったほうが正しい・・・という意味)」の言葉はここから始まった。

ところが 最近は新撰組の人気がでてきたね、 

善玉完全主義では つまらない・・・・時代の波に逆らって壮絶な青春を送った土方歳三や沖田総司の生き様がカッコいい・・と

現代の若者にも認められるようになったようです。

テレビで香取慎吾ちゃんが近藤勇をやったからかもね・・・

不良オヤジの雑学は メジャーよりマイナー嗜好だから

負けた徳川サイドにも人材がいたとか、あまり知られていないお話をします。 

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シャガ(あやめ科)の花

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