« 山岡鉄舟(その一) | トップページ | 泉岳寺界隈(その一) »

山岡鉄舟(その二)

◆江戸城無血開城

堅いはなしになってスマンが ここでまたちょっとだけ歴史のお勉強です。

明治維新とは? 

解りやすく言うと 徳川幕府による幕藩体制から明治政府による天皇親政体制への転換をいう、英訳はメイジ・レボリューションMEIJI EVOLUSIONです。

大政奉還(十五代将軍徳川慶喜が統治権を天皇に返還したこと)、

廃藩置県(地方政治の藩を廃止して中央管理下の府・県に一元化したこと)など、

昨今の郵政民営化なんてものじゃない、短い期間に体制・法律・税金・教育・住所表示・服装やヘアスタイルまで・・・「文明開化」というキャッチフレーズのもとに様々な改革が実施されました。

江戸時代、徳川幕府による ある意味平和な時代が三百年も続いたため

合戦を本業とする武士階級がヒマになってしまった、

武士のリストラや雇用制限が相次ぎ、何だかんだで浪人(失業者)が増えつづけた。

“武士は食わねど高楊枝”(めしも食えない貧乏なのにプライドが高いから楊枝をくわえて食ったふりをする)というのはこの頃の武士を揶揄したことばである。

ペリーの黒船来航をきっかけに 幕府に対する不満や外国に対する不安感が広がり、諸外国の圧力に対抗するには徳川幕府では頼りないから やはり日本人は天皇を頂点として一致団結するしかない・・・「尊王攘夷」の思想が明治維新のエネルギーとなりました。

そして 新しい日本を造ろうとする革新派(薩摩・長州など西国列強)と

徳川三百年の御恩を律儀に守ろうとする保守派(会津など奥羽同盟)に二分され、

鳥羽伏見の戦いを緒戦とする戊辰戦争へ突入したのです。

勝敗のポイントを握ったのは「王政復古」の号令を唱えた薩摩の大久保利通・公家の岩倉具視らの画策で 明治天皇から「官軍」のお墨付きをもらって錦旗(朝廷の旗印)を掲げた薩摩長州軍が勝利するのです。

一万五千の幕府軍が五千の薩摩長州連合軍に勝てなかったのは 近代兵器の差もあるが 幕府軍の侍たちが“錦の御旗”を見て 戦意喪失してしまう日本人特有の伝統的体質が原因のひとつにもなったのです。

鳥羽伏見の戦いに敗れた幕府軍は 総崩れとなって東へ逃げた。

東とは江戸である、江戸を拠点に体勢を立て直し 再び一戦交えようと新撰組などを中心とする過激派は まだまだやる気満々であったが、

江戸城内では 幕府の大将海軍奉行勝海舟の腹は決まっていた。

“時代の流れを食い止める力が徳川幕府には もうない、

これ以上日本人同士が戦って 日本の国力を落としては外国の圧力に対抗することが難しくなる・・・(尊王攘夷の思想は海舟も同じなのだ)、武士の意地だけで戦えば 不幸になるのは庶民ばかりだ、俺たちが刀を納めれば江戸の市民に犠牲者が出なくて済む“

山岡鉄舟に心を打ち明けた、 鉄舟も考えは同じだった。

「俺が南洲(西郷隆盛)のところへ死にに行こう・・・」

この使者は 鉄舟しか適任者がいないことを鉄舟本人も自覚していたのである。

海舟は西郷隆盛と和平交渉がしたいが 大将が直接出向くわけにもいかない、

そんなことをすれば過激派の暴発を諌めることができなくなる。

有識者の大局観からすれば人々の命と平和を守ることが真の正義で、 

武士の信念と忠誠心に燃える近藤勇や土方歳三は最早厄介者扱いなのである。 

その段取りとして 先ず過激派(新撰組)を江戸から遠ざけるため 甲府城の守備「甲陽鎮部隊」という肩書きを与え甲州(山梨)へ送った。

一番一生懸命やった者が放り出されることになる・・・それに気がつかぬ新撰組も哀れだが、冷たい処置を決断しなければならない海舟も辛かったはずである。

実際には それでもまだ上野の山に少数過激派が立てこもったが(彰義隊)一日で鎮圧されてしまった。

幕府は戦わないで江戸城を明け渡す、市民を巻き添えにしたくないから官軍も江戸の町へ大砲を撃たないでほしい・・・、という趣旨を事実上の大将である官軍の参謀西郷隆盛に伝えるために江戸へ進撃してくる官軍の本陣めざし 鉄舟は単身東海道を西へ逆走したのです。

駿府(静岡県)の西郷隆盛本陣へ到着したとき

「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄舟まかり通る・・・西郷さんに会いたい、案内をお頼み申す!」

馬上から大音声で官軍兵士の中を進んでいきました。

どうせ死ぬなら武士らしく堂々とした態度で死のう・・・

鉄舟は腕に自信もあったが死ぬ覚悟もできていたから、あまりにも悠々とした姿で官軍陣営の中を通って行くので、兵士たちのほうがビビッてしまって 銃を向けることも出来ずに「どうぞこちらへ・・・」の感じで 丁重に西郷本陣へご案内したのです。

2003_02025120003

後に西郷は「金もいらぬ 名誉もいらぬ 命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられぬ・・・」と賞賛した。

そして 官軍の江戸総攻撃を目前にして 西郷隆盛と勝海舟の会談が実現、当時の百万都市江戸は戦火から免れたのです。

Photo_101

戦争で敵兵を沢山殺す活躍をして 味方を勝利に導く功績のある人は「英雄」と呼ばれ歴史に名を残します。

私は平和主義的反戦論者ではないが

沢山の人を傷つけて国を統一した人よりも 戦わずに沢山の人の生命や生活を助けた人が 真の英雄だと思うけどね、

なのに なぜか山岡鉄舟も野口英世も・・・探せばまだ沢山いるはずなのに、

こういう人たちが歴史年表や教科書で 大きな扱いを受けていない。

Photo_102

鉄舟は清水の次郎長から こういう話を聞いたことがあった、

「てめぇ(自分のこと)より強ぇ相手と心底勝負するときは 

てめぇの命は捨ててかからなければ勝てっこねぇ、

相手を殺ろうとか 得しようとか 生き延びようとか、

ケチな考えがこれっぽっちでもあったら 喧嘩はハナから負けている・・・」

剣の師匠である鉄舟が 弟子の次郎長の喧嘩哲学に耳を傾けたのも 若き日の鉄舟に謙虚な向上心があったからである。

もしも次郎長の言葉が 鉄舟の覚悟と行動に影響を及ぼしていたとすれば 清水次郎長というヤクザ者も 江戸百万市民を救った陰の功労者になるのである。

 

|
|

« 山岡鉄舟(その一) | トップページ | 泉岳寺界隈(その一) »

不良オヤジの雑学」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/73843/6449362

この記事へのトラックバック一覧です: 山岡鉄舟(その二):

« 山岡鉄舟(その一) | トップページ | 泉岳寺界隈(その一) »