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石油のはなし

不良オヤジの雑学 幕末編

 

Photo_142  山岡鉄舟に関わるおはなしがまだあります。

文久三年、朝廷から攘夷実行を促されていた徳川幕府は“尽忠報国の志あるもの来たれ” と関東一円に浪士を募集しました。

攘夷とは前述の“外国の圧力から日本を守ろう”という思想のことです。

 

力に陰りが出始めていた徳川幕府は 武士の失業対策を実行すれば世論の支持を回復し、浪士の雇用なら人件費もコストダウンできる・・・という思惑で、当初は五十人くらいを予定していたのに なんとそれが二百人以上も集まってしまった。 

それほど失業者が多かったかということですが 朝廷や世論への手前 多すぎる浪士を追い返すことはパフォーマンが逆効果になってしまうので具体的な仕事の内容も決まらず賃金支払いのあてもないまま とりあえず“上洛する将軍を警護し京の治安を守る”という名目にして京都へ向かわせました。 

幕末の行政が いかにずさんでだらしなかったかということです。 年金のデーター失くした社会保険庁みたいだね。

この募集案は庄内(山形県)の浪士清河八郎によるもので、これに応募してきたのが近藤勇・土方歳三ら多摩の天然理心流試衛館グループと水戸の芹沢鴨・新見錦、その他諸々で 彼等が後に「新撰組」になるのです。(いきさつや政治的背景が複雑で 検証が面倒だから この先はオレ流解釈でポイントだけのおはなしになります)

新撰組は 京都守護職会津藩松平容保預かり(アルバイト)ということで落ち着いたので、結果的に中央(幕府)の尻拭いを地方(会津藩)に押し付けてしまったようなものです。 そして この浪士隊の取締役に山岡鉄太郎等が任命されました。山岡はこの浪士隊を京へ連れてゆく世話役をやっただけで ここでは特別な活躍をしたわけではないのだが・・・

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才能豊かで過激な尊皇攘夷の思想家であった清河八郎は 浪士隊のスポンサーが徳川幕府なのに これを朝廷の兵にする計画を持っていました。 それが“尽忠報国の志”を貫く彼自身の信念だった。

浪士たちを集め弁舌巧みに理想的な国家の在り方や尊王攘夷の理念を説いた、 判りやすくいえば 我々を採用したこの会社(徳川幕府)は将来性がないから 真に国のために尽くそうとするならば 伝統も将来性も確実な会社(朝廷)に転職しようではないか・・・というのです。  かき集めの浪人たちは どうせ無学で主義主張を持たぬアホばかりだと舐めてかかっていたのかもしれないが 彼等を洗脳し同調させる自信があったのです。

清河の情熱に賛同する者も多くいたが、「俺たちにはそういう難しいことは分からぬが その話は筋が通らぬ・・・朝廷を敬う気持ちに異論はないがまだ働いてもいないうちに 臨時とはいえ拾ってくれた徳川に背いては武士の一分がたたぬ・・・」

純粋な近藤や芹沢たちは反対であった。 

正しいか否かの問題ではなく 清河の態度が小生意気で横柄で、少しばかり学問が有るからとエラそうにしやがって、何だこいつは・・・と、近藤たちの気に障ったのです。 要するに自分の意見を一方的に演説する清河のトークが下手だったということになる。 このことが後に 幕府への忠節を誓う新撰組という武装集団の結束を固める結果になってしまうのです。

そして 清河は策略を企てる不忠で悪い奴だ・・・ということになり、佐々木只三郎らに麻布一の橋で斬られてしまったのです。

アタマが良くて勉強ができて 合理主義的な理論を展開することが出来ても 人の心に宿る素朴な正義感や価値観まで気配り出来ない者の悲しいところである。

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山岡鉄太郎は清河八郎とは千葉道場で修業する同門であった。 山岡は清河が描く“報国の志”を評価して 彼の本質を理解できる一人だったから、清河の死を聞いたとき「嗚呼、天は奇傑を滅ぼした(日本は有能な人材を失った)」と嘆いたそうです。   幕臣である立場上、清河の計画に直接加担はしなかっただろうが、仮にそれを知っていたとしても そういうユニークなのもありかな?くらいの考えはあったのです。

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同じ千葉道場に 山岡・清河と仲良し三人組の石坂周造という男がいた。      石坂は清河と意気投合する完全な同志であった。 二人は浪士隊を朝廷の兵にした後の具体的なことまで相談していました。

戦国の昔から 武田氏の山県昌景隊、徳川四天王の井伊直政隊、そして闘将真田幸村の部隊も、みな「赤備え」と呼ばれ最強と恐れられた、それにあやかって外国人と戦うときの陣羽織(ユニフォーム)を赤にしよう、全ての武具を赤色で統一したら なんとカッコいいではないか・・・、二人の夢は無邪気な少年のように限りなく広がり、その資金繰りを石坂が担当することになった。

 

石坂は以前から「石油」に興味があった・・・、当時は石油という言葉は日本にはない、「燃える水」とか「石炭あぶら」とか呼ばれて、火をつければ燃えることはわかっていたが世間の関心も低かったのです。

石坂はこれに目をつけていた、

越後あたりには燃える水が湧き出しているところもある(新潟油田)、これを利用して商品化すれば必ず需要があり金儲けができる、研究すれば武器にもなる・・、

燃える水に 未知の魅力を察知していました。

凄い先見である、石油の重要性を日本で最初に気づいた人だったのです。

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ところが 清河が暗殺されたことを知りビビッてしまった。

自分は清河の同志だ、このままでは佐々木や近藤たちに狙われる、

これは相当ヤバイ・・・!

彼はサムライを辞める決心をして江戸を離れました。 

越後へ燃える水を見学にいったり その他の地方でも採掘できる場所を探したり、

もう尊皇攘夷・尽忠報国どころではない、以後は石油の研究に没頭してしまった。

 

そしてついに明治になってから 静岡県で手掘りによる日本最初の石油採掘事業の会社を創設し、後に日本石油株式会社による機械でのボーリングに代って、石坂没後も昭和になるまでこの事業は続いていたそうです。 

しかし日本は元々石油の産出量が少ないから事業は次第に衰退し、昭和三十年ころには全ての井戸が閉じられ 現在日本では 石油は百パーセント輸入になっているのです。

採油されたあぶらは 当時「石坂油」と呼ばれ日本中に広まりました。       現在日本語で石油というのは 石坂の“石”と“油”を組み合わせて「石油」という言葉になりました。

 

このネタは子母沢寛の「新撰組始末記」で拾ったはなしである(記憶が曖昧だけど)、そして石坂周造の妻は山岡精山の次女桂子(お桂)、鉄舟の妻英子さんの妹です。   山岡鉄舟と石坂周造は親戚関係になります。  

明治初期の静岡県知事山岡鉄舟が 静岡県相良町で事業を興した石坂の大きな力になったということが想像できます。

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5月26日 横浜市営地下鉄センター南駅「さつき盆栽展」

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