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2009年7月

オレ流少年野球(3)幸せの時PART1

運動会

学校の運動会には招待状が来る、グランドを借りる立場だから学校とはうまくやっていく必要がある。 毎年ご祝儀を一本持って来賓席へ案内されるのである。

少年野球の監督は野球の指導と地域との交流、営業的な要素も必要なのである。

早い話が 練習量が多ければ強くなる、練習にはグランドが必要、校長先生と仲良くなるのも強いチームを作る秘訣である。

運動会、午前の部、昼時少し前に 来賓は教室で昼食の時間が始まる、私はPTAではないが特別待遇、校長先生、教頭先生、その他教務主任とか・・・幹部クラスの先生と共にビールを飲みながら懇親会である。 本当は若い女性教師のそばへ行きたいが 状況が許さない、

校長先生も興味津々で酒を勧め、教育的論議を交わすのである。 モノになりそうな子はいますか・・・? 将来野球選手になれそうな素材は運動会見ていれば大体分かる、私は勧誘したことはなかった、部員が多すぎてコーチ・スタッフのやりくりが大変な時期、

どーしようもない子をリストラしたいくらいだった。 野球指導の理念とか方針とか・・・強くなる秘訣は・・?・無法者ばかり集まれば強くなる、 野球部の子は素直な良い子が多いのは・?・・オレにぶん殴られるから 良い子のふりしてるだけ、優等生ばかりではなんぼ練習しても強くならない、 体力、運動能力のある子を揃えれば 放っておいても強くなる。 あんたは幸せ、教え子をぶん殴れるのはいい、教師にはそれが出来ないから。 

校長先生は定年を控えていた、卒業した教え子が 大手企業の役員とか偉い人になると心配、普通の社会人になってくれたほうが安心する、思い出に残る教え子は 皆ヤンチャで問題児だった、それがどんな大人になっているか、妻と子供と 普通の会社員で普通に暮らしていることを知ると幸せに思う、教え子が幸せだと自分も幸せ・・・、これが親心である。だんだん話が盛り上がった頃、午後の部がそろそろ始まるという知らせに「運動会は もーいいですから・・・閉会式に間に合えばいいですから・・・」と皆に演説する。 酩酊しながら サスガ校長先生だ、おれ校長先生好きだなー・・・と思った。

ヤンチャな無法者を指導するのだ、指導する側も彼等以上のヤンチャが要求される。  暴力団より警察官のほうがコワイ人になるのと同じだ。

校長先生とは その後何度か川崎の夜の街へ同行した、教育者、僧侶、病院の先生や看護師さん、聖職に従事する人たちは 酒を呑む席では水を得た魚のようになる、オラは会社員で幸せだった。  毎晩が水の中の魚だったから。

PhotoPhoto_2    

    近況 

7月下旬、去年の今頃も暑い暑い真夏を意地と根性で歩きまくった。  汗を拭きながら思い出し笑い?! それが涙に代わる、思い出し笑い?例えば入院中のリハビリ室で、粘土で何か作ってください、てことで、幼稚園レベルじゃねぇかよ・・・と、反抗期の不良オヤジは「うんちくん」を造った、担当のナースちゃん①②が「出来た?見せて・・・」「ハイ・どうぞ」とうんちくん持たせる、「ウッヒャー?!・・・なにこれ?・・ヤッダー、センパーイ、この人ウンチ造ってる」先輩と先生がすっ飛んでくる、「ダメです、真面目に ちゃんとしたもの作って下さい」「????何で???、これ ちゃんとしたウンチくんですよ、ちゃんとしてるでしょ」ちゃんとトグロ巻いて、立派な形、ここでは優秀作品だと思うけどなー?・・・確かに上手にできてる・・・先生はオラの味方だ、感心してくれた、男同士だ。   ああ云えばこう云う、悪戯ばっかりで皆がヘトヘト。  オレは余程悪い奴だったのか? シモネタばかりやってたから今バチが当っているのか?  良いこともあった、青春の思い出が次々と駆け巡る、今は人生を堪能している。 過去も現在も 濃厚な日々を生きている、今は幸せだ・・・(^.^)  

    

この頃は たまに読書する、やっと・やっと・・穏やかな時間ができた、 きみまろさんの文庫本を読み 一人で笑っている。 巻頭の一節から笑っちゃう、ちょっと拝借、 「愛だけあれば生きていけた最初の三ヶ月、思い出して。 ご主人が帰ってくる。 玄関で待ったじゃない。ドキドキしたじゃない。 口紅引いて待ったじゃない。 あれから四十年、今では カーテン引いて待っています。」「若い頃はよくハメをはずしました。あれから四十年、いま、はずせるのは 入れ歯だけです」 一人で笑ってる・・・バカダネー、オレもバカだけど・・・ 笑うことが多いから 今が幸せの時・・・

少年野球に燃えていた頃 劇症肝炎で死に損なった、あの時死んでいたら 葬式は弔問客で大騒ぎだったろうな、若いときほど葬式は盛大だ、死ぬならばあのときがチャンスだった・・・とか、しょーもないことまで想いが駆け巡る。  オレは勝負師になりたかった。 勝負師とは負けても平気でいられる人 オレはそれに向いていない、負けることが嫌いな人は勝負事に向いていない、勝ち負けという結果にだけこだわって悔しくて眠れぬ夜もあった、それが酒の腕を磨いていた。 相手を評価しなければ自らも向上しない。 それに気が付くのに三十年もかかっている、

肝臓病で入院中は花に囲まれていた、花に埋まって葬式の棺のようだった。 毎日花の世話をした、それがきっかけで園芸の趣味が始まった。 花は見てやらないと枯れてしまう、花は女の子だ、守ってやらなければ・・・と思う。 先生は花のジャングルを掻き分けて回診に来る。 卒業した子供たちまでグループ別に見舞いに来る、五六人で肩や腰を揉んでくれる、オレもうダメだから・・・そういう人は大丈夫だよ、監督がいないと皆が寂しいよ 早く元気になってよ・・・中学生に慰められる、監督は鉄腕アトムかと思っていたけど 人間だったのですね・・と、お母さんのグループ、そーですよ、私は弱いですから、勝負に負ければ眠れない、女に振られたら泣きますよ・・・次の見舞い客が待合室で順番待っている。  ベッドに戻るとバーのママさんからの花束がベッドに乗っている、唯の酒呑みだから・・・。 ライバルチームの監督まで見舞いに来る、・・・・メロン、すいか、巨峰、マンゴー、・・・普段食わない果物が食い放題、サスガに酒はなかった。クレープとかいう大人には馴染みのない食い物、マックかロッテリアか? 子供たちが百円ずつお金出し合って・・・これが子供のかわいいところ。 謹んでご馳走になりました。

みんなに心配かけていた、美味いもの食って・寝て、甘えて、幸せが身に沁みた。 幸せの絶頂期だった、青春は失敗ばかりだった、失敗は顔だけで充分なのに少年野球だけはまずまずだった、上手く行った・・が、一つくらいあってもいいでしょ。

人に迷惑かけないこととは健康でいることだ。 

そして去年の入院は 若いナースちゃんたちにチヤホヤされて、オレがそんなにモテるわけないよと分かっちゃいるけどヤメラレネェ、楽しい経験をさせてもらいながら 不良オヤジはご機嫌で周囲に迷惑かけていたそうであるが  動くことと食うことでは 人に迷惑かけていない(つもり)、隣の人はごはん食べさせてもらってる・・・いいなー・いいなー、オレも食べさせてくれないかなー、サービス悪いぞ、ホステスが消えた席で一人寂しく呑んでいる客みたいだよ・・・一人で食えるから幸運だとおだてられるが、二食も抜いたらオラ多分死んでいる?! 便秘の苦労だけだったから・・。 

二度の大ピンチにもしぶとく生き残り 今年もまた歩いている。  本当の勝負師とは ここぞという時に勝つ人のことだ。

最近は目が良く見える、読書が楽しくなった。 死ぬか生きるか、二度も体験した大病が「ここぞという時」かどうか知らぬが命を賭けたのだから大勝負だったのかも? 結果的に生き残っている。ラッキー&ハッピーがやっと実感できるようになってきた。  ウソみたいな幸運、こんなに幸運でいいのだろうか? 今日も歩いたが去年のスピードはない、歩けることは有難いことです。 きみまろネタ もうひとつ拝借「外見が年とともにヨレヨレになっていくのは自然の摂理です。昔ピチピチ、いまクシャクシャ、昔フサフサ いまツルツル、足はガクガク目はショボショボ、おしっこチョロチョロ・・」お散歩コースの向こうには中高年世代が待っている、今年は散歩途中で神社仏閣を見つけたら感謝を込めて合掌しましょう、心はいつまでも青春でいられるように。   

Photo_3ゆうばえの道

    7月20日、テレビで「初めてのおつかい」観た。 オラのお散歩コース ゆうばえの道を舞台に三才~四歳の女の子アリサちゃんが お誕生日パーティのケーキを買いにゆく、スーパーへ寄りケーキ屋さんへ行って・・・だんだん暗くなるし 荷物は重たいし、時間が間に合わないとどうしよう・・・、走るとケーキがグチャグチャになる、お友達はみんな待ってるかなー? 間に合うかなー? 早く食べたい、早く帰りたい、・・・沢山悩みを抱えながら えーん・えーん・・と、泣き泣きゆうばえの道を帰る。 これはいつみても泣けてくる、笑いながらだんだん涙になってしまう。  カメラマンも通行人も 周りの人たちは皆スタッフで 皆に守られながら 必死になって歩く、社会全体がやさしさに溢れているようで・・・アリサちゃんが幸せだから 愛おしくて皆泣けてくるのだ。 幸せな子供を見ると大人も幸せを感じるからだね。

 この道をオラは去年から何度も歩いた、泣いたり笑ったりしながら・・・基本的にお笑い系ですから面白いことを思い出しては笑いが出る、でも他人からみたら気色悪いよ、サングラスが手放せないが笑顔が大半ならば アリサちゃんほどではないが幸せだと思いたい。 孫娘ひーちゃんが三歳の時、皆で買い物に行った、本人はお手伝いモード全開で何か持たせろという、軽いものが良いとティッシュの箱を持って歩く、自分の背丈と同じくらいあるから肩に担いだり 大汗かいて顔を真っ赤にしてがんばった、「あー・・・お買い物はキビシィー・・・」ひーちゃんの名言である。孫が幸せだと 爺ちゃんも幸せだね。  7月28日、テーブルにお寿司とお稲荷さんがあったので一個つまみ食いした、「ダメよ、手で食べちゃ・・・」「手で食べてないよ、ちゃんと口で食ってるよ・・・」飲み食いと動きに関しては家の中でも絶好調です。

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オレ流少年野球(2)

◆おんなおとこ    

子供は余計なことを考えない、ことばも行動も目的に向かって一直線なところがユニーク、子供の良さである。  例えば 試合が終って解散の時、まっすぐ帰れよ・・・、まっすぐ帰るとぶつかる・・・?、 髪の毛伸びた、頭切ってこい・・・、切ったら血が出る。  ひょうきんなのもいる、ああいえばこう言うやつもいる。  リーグ戦の最中、N小学校からT小学校へ移動するとき、次の試合まで一時間しか時間が無い、 大丈夫、近道知ってる・・・、子供たちに付いてゆくと直線の最短距離を進むのである。 よその家の塀を乗り越え、庭を通り、小川を渡る、迂回して 橋を渡るなんてことは眼中にない。

家主に咎められたらどうしよう? 確かに最短距離は時間が短縮されることを学んだ。

女の子が三人いた、活発である。 とこ・ちこ・ひな、トコとチコはマネージャー、得意なレパートリーはペッパー警部、大人から見るとかわいいアイドル三人娘だ。  男の子にも芸達者がいる、キャンプファイヤーで「北酒場」、「渚のシンドバット」、子供たちはノリノリで手拍子の大合唱になる・・・、オレはこれが理想だった、こんなチームにしたかった。 引越しで静岡へ転校する子のお別れ会、あっちへ行っても野球やります、みんなありがとう・・・五年生のレギュラーで 次期主将候補、なかなかいい選手だった、挨拶中に涙がポロリ、 それを見て こっちまでジーンとくる。 お別れの歌「また会う日まで」をやるという、♪今日の日はさようなら また会う日まで・・・キャンプファイヤー、子ども会的には これをやるかと予想したが 子供たちが唄ったのは ♪また会う日まで・会える時まで 別れのその訳は話たくない、・・・・・オレの弟子たちだ、これでいいのだ。   何処で覚えたか知らないが 泣かせることをしやがる、監督もコーチも 涙もろいのは大人のほうだった。  

ヒナは時々実戦に出ていた、小学生は女子のほうが体力的に男子に優ることもある、 豪快なバッティングをする。  三人ともかわいいから・・?!・、「えこひいき」、「えんがっちょ」・・・子供たちに冷やかされても関係ない、少女趣味ではないが 女の子を大事にするのは男の本能である。 

昭和の子供、小・中学生くらいまでは男子と女子が仲良くない、男女は一線を隔てていた。男子と女子が手をつないで歩くと「えんがっちょ」なのである、ベルリンの壁があった。  高校生より大きくなると異性に興味を持つ、経験的には18歳過ぎると女が愛おしくてしょうがない、ガールフレンドがいないと落ち着かない、常に恋人募集中であった。 

子供の野球に男女は関係ない、九人いれば女の子だけで試合やらせたいくらいだった。

あるとき三人が私に悩みを打ち明けた、おとこおんな・・・と皆に言われているが「おんなおとこ、おかま」といわれて納得できないよ・・・、確かに国語的には おとこおんなは♀、おんなおとこになると♂という意味である。  彼女たちにも「女」の誇りがあったのだ、女の子の片鱗を少し見せた。  練習試合、彼女たちがスタメンで出たあと 残りのレギュラーたちに冷やかされて「おんなのくせに野球する、おんなおとこ」と罵られた・・・。

何故かオラはアタマにきた、試合に出られなかった「男たち」を並べて 怒鳴りちらした。皆引っ叩かれると思ってビビッていたが、いつもは口より先にげんこつが出る、感情的になるのはこっちのほうだった。 「お前ら 女に負けて悔しくねぇのかよ、おんなおとことか おかまとか? 女の子を口で苛めて スタメンとられて・・お前らのほうが「おんなおとこ」じゃねぇかよ、お前らそれでいいのかよ、バカヤロ、」・・「??????・・」殴られる?皆緊張していたが 何もしないで歩き出したから唖然としている。 「叩かないよ、女より弱いおんなおとこは 叩かないよ、 叩けないからオレが悔しいよ・・・」   

帰り道に応援団のお母さん 「監督さんはいつもニコニコ優しいのに あんなに顔色変えて怒ったの初めて見た、あんな怖いとこ初めて見た、いつもなら叩くのに 何故叱るだけで終ったの?」オカマ・・と云った子のお母さんだった。 今あいつら叩いたらオレが泣きそうだから・・・家に帰ってから親がぶん殴ってやってほしい、仲間同士で揉めるのが一番嫌だから、子供たちが整列しないのはオレがダメだから・・・そんな内容の話にお母さんのほうが感動してしまった。 偶然かどうか知らないが いいとこ見せる結果になった。 夜電話が来た、監督が皆をどれだけ心配してるかを子供に伝えた、監督に殴られるのは慣れているが お父さんにやられて相当身にしみたようです・・・ありがとうございました。  一列に並べて横面を引っ叩く・・・、まるで軍国主義のようで、父母のいないところでしか出来ないことだ。 わが子の叩かれるのを見て 親はいい気持ちしないよ、こっちが遠慮しただけだ、叩かないのではない、叩ける状況でなかっただけだ。  そこまで計算しない、成り行きで啖呵きってみただけで支持率急上昇、次の試合からは父母の応援団が激増した。

少年野球とは ホットな大人とクールな子供の戦いだったのだ。   私は幸運だった、野球哲学はあったが 実践してくれるのはコーチたちだった、良き仲間に恵まれていた。

チーム全体が同じ方向を見ていた。  感情的になりぶん殴ったり 喜びのあまり抱きしめたりして、その理由を子供に伝えるのはコーチだった。  オラ何もやってない、おいしいとこだけ廻ってくる、 人生には「花」の時期がある、努力しなくても良い方向へ事態が動く、幸運が付いて廻る時期があったのだ。  「勝つ」ことが幸運ならば、もっと勝ちたかった、オレは勝負師でない、肝心なところでイマイチ止めが刺せない、それが悔しい、方向違いのところではいつも幸運だったから 何となくトータルすれば幸運だったのかな。    

◆我がレッドイーグルス、全盛期には部員が百人を越えた。 少年野球で強いチームの条件は 体格の大きい子を揃えること、人数が多ければ 素材も沢山いる。  毎年春先新学期には新人が入部してくる。  入試が許されるなら体格や運動能力のテストをしたいくらいだったが 諸事情で断ることは出来ない、全部合格だとスタッフが大変、募集の締め切りを短くして制限する、贅沢な悩みであった。

様々なタイプの子がやってくる。 自分も含めて基本的に皆親ばかである。 

色々あった、我が家へ直接訪問してくる親子もいた。  うちの子は左投げですから投手が向いていると思います・・・父親はポジションまで希望する、将来は甲子園からプロ野球・・・未来を想定して来られると辛い、ポジションはこちらで決めますから・・・丁重に 納得させるのに一苦労である。 (うちは左投手に不自由してない、左がどうのこうのじゃねんだよ、大吟醸の一本でも携えてくればオレはどっちにでも転ぶ、そんな程度の監督だから、主戦投手で四番でもいいんだよ・・・)現在のオレなら これが言えたかもしれない。

体の小さい虚弱そうな子のお母さん、一年間鍛えてください、体力つけて強い子になってから勉強に集中します、・・入団と同時にFA宣言である、目標は受験勉強、目指すは東大、野球で体鍛えてから勉強する・・・!??中・高・大学までのビジョンができているのだ、背筋のしゃんとしたお母さんだった。 子供と大人の区切りをつけるような感覚、徴兵制度のように ある時期体を鍛え人間を磨く、それを乗り越えて大人への道を歩む・・・?? 

恐れいりました・・・である、オレにはそこまで考えつかないよ。  5年生になったとき そのお母さんは大きな袋に高級な酒の肴を手土産にやってきた。 お蔭様で体力つきました、精神面も強い子になりました、これから勉強に没頭します。 潔く退部の挨拶にきた。 厳格な母の姿、サムライの母、武士道のようなものを感じた。 立派なお母さんだ、でも勉強しなければならないあの子は可哀想、・・・勉強より野球のほうが面白いでしょ・・・(^.^)

Photo_2  かわせみ

★ 読者様へ 素敵なブログを紹介します。

サイドバーのマイリストに「フラワー大好きさんのブログ」をリンクしました、信州美ヶ原の中腹 ススキ川の渓流釣りの時にお昼をご馳走になった「かけす食堂」です。 きのこうどん、旨いよ・・・山の四季、花の写真がきれいに編集されています。 心癒される美しい写真が満載です、ブログのお手本だ。 オラのはなかなかうまくいかんけど・・・

日本の自然を感じます。オリジナルの珍しい料理の写真も・・・・、是非お立ち寄りください。

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オレ流少年野球 (1)

オレ流少年野球指導法

     スピード スピードに拘った、野球の基本キャッチボールは山なりのボール投げたらダメ、地面と平行に速いボールを投げる、肩を強くするには全力で投げる。 下手くそチームのキャッチボールを見ると 山なりのボールが手前でバウンドして頭を超える、ワンバウンドで良い、速く低いボールを投げあう。 キャッチボールのスピードで強いか否かが分かる。 レーザービームはワンバウンドで練習する。

やがて肩が強くなればストライクのバックホームができるようになる。

     フルスイング 思いっきりバットを振る、いつもホームランを狙う、バットを速く振れるチームは強い。 バットの振りが速ければ 相手はビビル。

     バント バントしたことない、同じアウトなら空振りで三振してこい。 

オレ流少年野球理想理論、こればっかりだった。  監督の戦略やサインで1点とる、そういうことは上手でない、「打て・打て・・・」ヒットで大量点取るしか出来ない、サインに従ってバントでは 選手も面白くない、ヒット打ってヒーローになれ・・・そのほうが こっちも楽しい。 いい加減でも勝つときは勝てる。

Photo  

三十代、酒の腕を磨き少年野球に燃えていた時期が我が人生のピーク、少年野球の話になると自慢話になってスマンが これくらいしかオラにはないのだ。 うまくいった、やりたいように出来た、子供たちにはユニークなキャラが沢山いた。 

夢に向かって走れ・・?的な純粋スポ根青春ストーリーだが、不良オヤジの回顧録にはオレ流裏話が沢山ある。

健康で自信に満ち溢れ思い出いっぱいの時期であった。  子供はエゴだが 自分はもっとエゴだということが分かった。 悔しい思い出ばかりなのは 自分のエゴを子供に押し付けていたから、準決勝、決勝の常連、名門チームに成長したのに 負けた思い出しか残らない、子供たちの涙を何度も見て後悔し反省するのは いつも監督のほうだった。 

 百戦百勝は出来なかった、子供たちに悪いことをした、すまなかった・・・今彼等に再会したら 伝えたいのは そればかりだ。

何十年経っても 野球のアルバムを開くと涙になる弱い監督だ。  ヤンチャたちの世話を焼いていたつもりが よく考えれば自分が一番問題児のガキ大将だった。  

子供たちには 教わることのほうが多かった、

十年間 子供たちと共に戦って得たものは 「やさしい男になろう」自分の信条を見つけたことくらいだろうか。 

里中ちゃんアンダースローの超スローボールチビ投手、漫画のキャラ・さとなかちゃん)

あるとき 春の大会、コテンパンに優勢な試合、四回途中まで10対0でリードしていた。

ピッチャー里中、捕手ドカベン、一塁イッキュウ、二塁チュウタ、三塁ササ・・・ベストメンバーではない、ヤンチャな悪ガキばかりでやってみた。 私は子供を苗字で呼ぶことは少ない、名前、ニックネームで呼ぶ、子供の目線に合わせるのではない、ニックネームのほうが彼等の世界に入り易いからである。  声が良く出る、野球の技術はイマイチでもいい、賑やかにやれるチームは強いことを六年生のレギュラーに見せたかった。  

「ピッチャータマ遅い・・・蚊がとまる、ピッチャー 顔悪い、ドラキュラだー・・・」相手ベンチから野次が飛ぶ、里中はセットポジションのまま 相手ベンチに文句つけている、「ウルセー、バーカ、明日学校行ったら 泣かすからな、・・」三塁ササが これまたスゴイ「オラオラ・・・バッター 打てねぇのかよ、ナンダテメー・コノヤロー・・」そんなこと教えてないけど、この個性が好きだからスタメンなのである。

里中がなかなか投げないで やりあっているから審判に注意される。  「投げなさい、ボークになるよ・・・」 里中はまだ相手ベンチに向かって「コノヤロー、ぶつけるぞ・・・」

まるで喧嘩状態になった。 審判もついにキレた、監督が呼ばれて厳しい口調で注意された。 「礼儀を指導してください、乱暴なことを言わないように・・教育的にお願いしますよ・・・」オラ謝るしかない、分かりましたすみません、相手のベンチ前まで進んで まだ文句言っている里中のアタマにガツンと一発くらわした。 「オマエのおかげで怒られただろが、明日負けるなよ、絶対やっつけろよ 」明日の決戦の激励をした、野球は楽勝だ、喧嘩に負けたらダメだ。

結果は五回コールド勝ち、47対0、記録的大差であった。 子供の野球ですから 加減して手を抜いてやってもいいのに・・・、大人げない・・・、子供の気持ちを 少しは理解して・・・審判も相手ベンチの大人たちからも非難の声が聞こえる。  意気揚々と引き上げたが コーチや年長スタッフにまで窘(たしな)められた。  でも オレはこういうスタイルでやりたかった、里中ちゃん、かわいい子にドラキュラなんて ヒドイよと・・自軍応援団には支持されたが・・・。 自治会、子ども会、PTA・・このての教育福祉的組織がオレはキライだった、生理的に嫌い、逆らいたくなる。 その昔このての大人たちが売春禁止法に賛成した??。 子ども会主催の行事に野球部さんは協力的でない・・といつも叱られるが「クリスマス会」「芋煮会」・プレゼント?・・・別に嬉しくもないよ、芋も食いたくないよ・・、芋食わすために子供を動員しているのではない、野球の練習したいよ・・・であった。 子供を大人が遊ばせてるつもり?・・違う・大人が遊んでもらっているのだ。 うちは練習した、努力したから強い、仲良しクラブじゃねんだよ、手抜きしたら子供に失礼だよ・・・。  ボランティアの大人が子供の遊びにまで介入するから 子供は甘やかされたまま大人になる、子供のままで大人になってしまう・・・そんな考え方だった。 こっちは毎日子供と練習してる、二日酔いでも朝練してる、たまに見に来て 偉そうにいうんじゃねーよ。

オラもアタマきた、すみませんでしたね、今日は二軍、次は一軍のベストメンバーでやります、百点目標に頑張ります。「ハイ、バッターさん、打ってくださいねー」と、お上品に声掛けるように指導いたします、青少年を健全に育成いたします・・・。 

ムッカツク審判団に捨て台詞・・・? 何が子供の気持ちだ? 解ってないのはそっちじゃねぇか、ドしろうとの審判が偉そうにしやがって???、良い子のみなさん、グランドのお掃除でもしてから帰りましょうかー!

監督がイジケてる!子供たちには冷やかされ、あんたが熱くなったらいけないよ、あんなあてつけがましいこと云って 審判に喧嘩売っては不利になる、年長のコーチに夜の酒席でまた叱られる。 オレも親ばかだ、熱くなるよ、かわいい顔したサトナカちゃんはオレの息子だ・・・不良軍団をコントロールしているのだ、彼等以上の悪ガキにならなければ やってらんねぇ、文句あっか?・・・このチームは命名からユニフォームのデザインまでオレの作品だ、好きなようにやる・・・

自信の塊りだった。 怖いものが何もなかった。 子供たちはオレの宝物、彼等のためなら喧嘩もできる。

強くなるほど人数が増える、所帯が大きくなると風当たりも強い、いつも誰かと喧嘩していた・・・、それが心地よい、

好きなようにやっていたから 楽しかった、青春真っ只中だ、・・・だから思い出に残るんだよね。 

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昭和の腕白武勇伝(2) 夏のちびっ子物語

近況報告、

激動の時が流れ 季節が巡り 大病に倒れてからもうすぐ一年半、 再び暑い夏が来た、ウソのような一年間だった。 笑って笑って、涙を笑ってごまかして、何とか今日も味わい深い一日を過ごそうと 歩いて食って呑んで・・・お蔭様でブログの更新もしてる、アホになっては困るから アタマも鍛えようと日々精進しています。 

大昔、三十年も前、肝臓病で死に損なったときには 食事の制限・酒の制限があった。

減量による改善を目標に栄養士の先生まで参加して 一日に食ったものを全部記録して報告する時期があった。 アルコールは勿論ダメ、・・・・こういう病気は一番辛い。 食っちゃいけねぇ、呑んじゃダメ・・・、死んだほうがましだよ・・・といいたくなる。

この度の大病は それがなかったのがせめてもの幸いだった。

一ヶ月の昏睡から目覚めて測った体重が57kg、・・・これなら競馬の騎手になれる???

自分的にはこの激ヤセがショックだった。  マイナス13kg、500kgの競走馬がパドックでマイナス100kgと表示されるようなものだ、誰も馬券買わないよ。 

それを口にしたら叱られる、ヨーシ食うぞ、食いまくって体重復活するぞ・・・と密かな決意に燃えていた。 点滴だけで眠り続けた一ヶ月、この断食はダイエット効果になった。

去年から何度か血液検査したが 肝機能の数値が正常になったのは何十年ぶりか・・である。

尿酸、GOT.GPT.γGTP、中性脂肪、コレステロール、全部合格! 一項目くらい問題点がないと正常ではないよ、無病息災では現代人は危険を伴う(素人考えだけど)

バカは風邪ひかないというが 年に一度や二度は風邪ひくバカが良い、私の友達は 男も女も基本的に皆バカである。 ドヂで貧乏で、どこか抜けたところがある。  優等生に友達は出来ない、バカ同士だから心が通い合う、友達とは一緒にいて気分がよくなる人である。 だから友達なのだ。

今度の病気は「食えるから」よかったよと、今になって「幸運」とは こういうことも含めてのことなのだ・・と思うのである。  それでは 理想的な大病とは? 一日に何カロリー以上摂取 しなければならない、一合以上の酒を呑まなければいけない・・・という逆説的な規制を要することになる。  低血糖値で何か食べないと死ぬという病気があるらしいが そんな贅沢な病気で苦しむ人がいたら いつでも替わってやりたいよ。 オレなら三人くらいまとめて替わってやるよ。 父母に祖父祖母に・・先人たちは皆 やせ細って逝った、死ぬときは皆痩せて小さくなってしまう、そういう姿を見て育ってきたから、哀しい時代だったから・・・(自己弁護になるが) 

 朝 渓流釣りで山女・岩魚・ニジマスと遊ぶ、午前中は古い野球仲間を集めて草野球、一汗かいてから昼食はバーベキュー、冷たいビールと肉をむしり喰らう、午後は競馬場で競馬三昧、大穴当てる。 夕方は箱根辺りの温泉で宴会、コンパニオンの姉ちゃん10人ほど呼んで カラオケ、夜遅く風呂に入って そのあとは寝室でマッサージ、またはソープランド、ネイルサロン・・・etc.穏やかな眠りに就くまで ゆったりと過ごす・・・。  理想の一日である。 こんな一日が過ごせたら翌朝死んでもいい・・。

6月上旬 親友と二人で生ビールとヤキトリ食いながら談笑していた。 趣味が同じ、やってきたことも似たもの同志、理解し合える良き友である。 不良好き勝手なことを語り、涙うるませバカ言って、「理想の一日」は互いの夢を語り合った結論である。  日本に生まれて良かったね、平和で幸せな時代だね。

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大病から一年、変わったことは基本的になにもない、一年歳を重ねただけだ。  

あんな人になりたい・・・と 思っていたあんな人になってしまったような気がする。 自分は「あんな人」になれてラッキーだが あんな人とは言いたいことを言える人、その言いたいことが時として人の心を傷つける、気遣いできないのはバカな証拠である。 

例えばおなら、屁をこきたくなる、孫娘がいれば オーイ・ちょっと来て・・・、呼んでからカウントダウン 3-2-1-0 BOW-!?? と、豪快にぶっ放す、チビのなーちゃんは爆風で吹っ飛ぶ・・・、若い頃はおならなんて絶対密かに人に悟られないようにやったものだった。 満員電車とかエレベーターの中とか・・・公共の場でやるのは卑怯だ、犯罪に等しい、そこまでの度胸はないが 今では宣言してから正々堂々と一発かませるようになってしまった。 単に恥知らずのバカになったのかもしれないが こういうことは憧れでもあった。  思ったこと感じたことは 言わなければ伝わらない、相手を傷つけないように・・・なんて気ぃ遣ってたらダメ、ブスに向かって オマエはブス・・と言ってしまう、これはいけない、最悪だ、でも「いつもキレイですねー」見え透いたウソは もっといけない。

私は子供が好き。 長いこと少年野球の世話をしていた関係もあるが 子供と接する時間が多かった。 子供の会話、遊び、生態が時代を反映しているような気がする、子供のユニークな言動に遭遇するとき 平和や幸せを感じて 自分も心地よくなるのである。 

① 我が家の近所に小児科がある。 ある日 診察終った親子が出てきた。 お父さんと一年生くらいのヤンチャそうな男の子、父「あー、がっかりだよ、オマエ少しは寝込んでくれたら助かるのに・・・疲れるよ」  この子の普段からの活躍が想像できる。 お父さん疲れてるのだ、風邪でもひいて寝込んでくれたら 親孝行になるのだ。

     道端で 幼稚園の子が先生に説明している「あのね・ボクのお兄ちゃんの学校のお友達のお兄ちゃんがね・・・来てるから・・・」先生「お兄ちゃんのお友達なの・・・?」

「違うの、あのね、お兄ちゃんの学校のお友達なの・・・お兄ちゃんの学校のね、お友達のお兄ちゃん・・・◎▲★???」複雑な会話である。

七月七日、七夕祭り、お散歩コースの児童公園に七夕祭りの笹の枝に 短冊がキラキラして子供たちの お願い事が書いてある。 七夕の短冊に書く子供の願いは微笑ましい、「いいことたくさんありますように」「お絵かき上手になりますように」ここらへんはポヒュラーである。 よく見ると面白いのもある。

「字が書けるようになりますように・・・」???誰が書いたんだよ・・。

去年の4月 退院してからはお散歩の日々だった。  唯歩くだけなのに 色々な発見がある。 歩くだけ、小さな日常の出来事でさえも 貴重なことのように思えるようになった。  今あることが幸せ、やるなら今しかねぇ・・66のオヤジだ、未来が短いみたいな考えになるから 病気は哀しい。 (読みやすく編集したいが うまくいかん、アレも伝えたい、これも言いたい、長くなると いつの間にかシモネタになってしまう?!!! 新しいカテゴリ「シモネタ」が必要かも?)  

今どきの子供は優しい。 苛める・冷やかす・おちょくる・攻撃する言葉がやさしいのである。 社会がそういう教育をしているのだろうか、いじめで自殺するような子が出るから社会が敏感になってしまった・・・

めったなことを言ってはいけないよ・・と、教えているのである。

昭和の時代、戦後の食料事情の悪い東京で育ったオラの子供のころは いじめも喧嘩も からかう言葉も核心に迫る傷口をえぐるような 厳しい内容であった。

バーカ・カーバ・チンドンや・おまえのカーサン・デベソ・・・

昭和の後期になると

バカって言ったらおまえがバカ、ぶったらブタに良く似てる ブタの結婚まだ早い。

かなり露骨なことを囃したてられても 傷つく子は少なかった。 その程度で傷ついていたら生きていけない時代だから。

だから子供が逞しく育つ、どこの家も皆貧乏で困難な時代、戦争という経験が優しい人間性を育てた、ならば戦争したほうがいいのか・・・やっぱり戦争はダメ、平和が一番だ。 個人的には売春禁止法も反対だけど、そうはいかないだろうな。

①小学校一年生の図画工作の時間にウンコ漏らしたことがあった。 完成した手作りのこいのぼりを持って 皆で町内を一周した? 残酷な運命の記憶である。

「みっちゃんみちみちウンコたれて かみがないから手で拭いて もったいないから食べちゃった・・・」これの絶好のモデルになった。

②ター君の家へ先生から預かった書類を届けに行った、裏庭から玄関に廻るところに犬小屋があった、犬の身長とオラの急所の身長が平行だったのがウンの尽き? 出会いがしらにパクリとやられた。 芯棒と玉二つ、三点セットを丸ごとパクッ!?!・・・である。

ズボンの上からだったから大事には至らなかったが あの時の犬が凶暴で噛む力が強かったら 今日の私は存在しない、子供・孫たちの存在もない。

泣き泣き帰ると母が赤チンを塗ってくれた、これが本当の赤チン・・・である。

アメリカザリガニのでかいやつをマッカチンと呼び 子供たちの憧れの獲物であった。

オラはマッカチンのあだ名で 学校では有名人になっていた。  それなりの修羅場を乗り越えたヒーロー気分もあったが あれはジャストミートのタイミングだったから・・・半世紀後の記憶に残るほど痛かったよ。  昭和の子供は夫々に個性豊かなシモネタの履歴がある。  

Photo_2Photo_3 プラタナスの新芽

晩秋にプラタナスの大木から落ちた実から新芽が出てきました。 木の根から出た芽ではない、種から生まれた新しい芽。

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根津・文豪の町散歩

七月五日 田園都市線・半蔵門線・千代田線・・横浜と東京の地下鉄乗り継いで90分、根津から上野公園をお散歩しました。  posiが信州から東京へ戻ってきた、上野動物園のそば、緑の多いところ、下町情緒を感じる細い路地がある、文豪の町根津、どの家も路地に鉢植えの花を咲かせている。 夏場には風鈴・蚊取り線香が似合いそうな路地である。 地下鉄には雪駄履いた江戸っ子風のオヤジが乗っていた、浅草の夏祭りには こういうアンちゃんやオヤジが多く見られる、銭湯では熱い湯に浸かって うめちゃいけねぇ・・・と怒られたそうである。  

Photo

鰻屋で食事、店の前に朝顔の鉢植えが沢山並べてあったね、「あさがお市」に出す売り物だ、コレを見て夏を感じた。 古い街には季節の発見がある。   去年の今頃は リハビリのお散歩でヨコハマの緑の道を選んで意地と根性で歩きまくっていた頃は 一年後には文豪の町根津、上野の山まで歩いているとは思ってもみなかった。  あれから一年、まだ生きてお散歩やってる・・・・この辺の祭り好きで頑固な職人風のおやじのように オレも江戸っ子だ、簡単にくたばってたまるか・・・と、元気な現在に感謝。

Photo_11右に動物園、

Photo_6 森さんちの庭

明治の文豪森鴎外の居所跡を見学した。  この界隈は夏目漱石の居所もあるらしい、今回は行かなかったけどね、行っても何もでないだろうけど??

この頃は目が良くなった、メガネなしで新聞読めるようになった。  去年の眼の手術のお陰だ、コワイ経験が無駄ではなかった。 読書でもしてみようかと思っていた。  森鴎外は難しい、若い頃挑戦したが明治の日本文学は漢字が読めないくらい難しい・・と、すぐにギブアップしたこともあった。         

Photo_2 玄関にはめだかちゃんがいた。 

Photo_12 蓮の花が一厘。

動物園の外側の道を通って不忍池、蓮の花はあと一週間くらい、ちと早かった。 鰻食って酒呑んで、池之端へ戻ってから一休み、posiが一冊の手帳を出してきた。 おふくろの手帳だ・・・。 まだ読まないうちから 涙がドヴァー・・・となる。 手帳の表紙は大名行列の絵、いかにもレトロな手帳、予定や日記が書いてある。 母の匂いがした? 

モーダメ!!?、森鴎外が難しいなら 最近の人気作家の短編集でも探してみようとしていたのに 「母の手帳」このほうがオラには貴重な愛読書になりそう。

Photo でも 読むとウルウルきそうだし・・・困ったことである。 オラの一番のウィークポイント、 オラを泣かすのは簡単、この手帳読むか ZARD坂井泉水さんの歌聞かせれば すぐ泣くよ・・・母とは この世で最も偉大な存在である。  あの暴れん坊ハマコーさんも「お母さん」のキーワードで泣き虫になるくらいだから・・・・母を困らせていた頃はそんなこと考えるヒマもなかったが。

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 時間がゆっくり流れていそうな根津・池之端・・・森鴎外の家、レトロな下町情緒を味わって、美味しい酒とお食事と、母の手帳にも出遭えた・・・ハッピーな一日でありました。  それにしても 母の手帳、信州から東京へ引越しのどさくさに よく無事だった、これがあって本当に良かった。 今年の夏も 時間がゆったり流れるような日に たまにはめくってみようか、涙拭くおしぼりとタオルなしでは読めないだろうけどな。

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昭和の腕白武勇伝(1)応援歌

若い頃は軍歌を歌う大人が嫌いだった、世代的格差もあるが会社の先輩やお偉いさん世代が宴会で軍歌を歌うころは そろそろお開きなのである。  オラの世代、若手はそれを聞かされながら つまんねぇ、全然面白くねぇ・・と酷評していたものであった。

ここはお国の何百里 離れて遠き満州の・・・??? 私は日本の歌でこれが一番キライ、これを感無量で唄う年長者の気持ちが解らない、今でも解らない。 メロディもリズム感も 音楽的にはまるでつまらねぇ、暗くて暗くて、戦う前に寒くて腹へって死にそうだ、あんなリズムだから日本は負けたんだよ・・・と思ったりしていた。 

高校生のときに観た「騎兵隊」、ジョンウェイン主演の南北戦争を舞台にした西部劇映画、北軍の騎兵部隊が行進しながら合唱する 映画のタイトルバックの曲

(ホースソルジャース・騎兵隊のマーチ)

♪アイレフトマイラブマイラブアイレフト スリーピングインハーベェド アイウィルマイバックオン マイトルゥラヴ フォファイティングジョーニィレッド アイノダゥンゼイゴーゼアス゛ノーサッチワードアズキャアント アンビーマイヴァクオン ニユーオーリーンズ フォーユリシーズシムプスンズグラント・・・

このほうがずっとカッコよかったよ。 音楽的にも内容も、ただし英語のスペルが分からない、そらで憶えて口ずさんだ歌詞である、(聴覚の記憶・・・かなりいい加減かも)

アバウトに翻訳すると・・・彼女のベッドで一緒に寝てたのに 南部の赤い野郎共と闘うために行くのだ やっつけてから必ず愛する彼女の元に帰ってくるから、俺たちに出来ないという言葉はない、ニューオリンズを攻略するぞ、敬愛するグラント将軍と一緒に・・・。 ジョニィレッドとは南部の奴らをおちょくった呼び方、ちなみに南軍は北部人をヤンキーと呼んだ、これも軍歌なら軍歌はこうでなくっちゃ・・・である。 戦いに行くのだから陽気に 景気よく勝つことしか眼中にないとこがいい。 彼女と寝てたのに戦いに行くぜ・・必ず戻るぜ・・・陽気で前向きで・・・・ここがアメリカ民族の強さなのだ。  戦時中の日本だったら不謹慎でケシカラン・・と、問題になる歌詞である、そんなことだからダメなんだよ・・・と云いたくなるのよ。 

昭和20年、太平洋戦争が終わった、焼け野原になった東京の街に やがて進駐軍が持ち込んだジャズが流れて、それを聴きながら育った子供たちは いつの間にか憎い敵国のはずのアメリカが好きになってしまった、ジャズという音楽文化のファンになってしまった。

威勢の良い軍歌の行進曲、「錨を挙げて」のほうが軽快で爽やか、「軍艦マーチ」に意気高揚とするのはパチンコ店へ行ったときくらいだった。  どこの学校の吹奏楽部も校歌のほかにヘィグッドゥウェーマィボーィ「錨を挙げて」は必ずレパートリーにあった。 若者にはアメリカンマーチを心地よく受け入れることができたのである。

不良オヤジの雑学 アメリカ南北戦争は 革新的な北部工業地帯と保守的な南部農業地帯の戦争、 南軍はリー将軍、北軍のグラント将軍は戦後大統領となる。

人民の人民による人民のための政治・・・リンカーン大統領の演説もこの時代である。  慶応義塾を創設した福沢諭吉先生の有名な言葉「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず・・・」これはリンカーンの名言に似ている・・・天は人の上に人を乗せて人を造る・・・慶応をおちょくっているのではないが 当時のオレらには この方が真理であった。

 幕末には 龍馬のように若き志士たちが天下国家を論じたのであろう、 神宮の試合が終ると祝勝会または反省会、どちらかの名目で飲み会の有志を募る。  全学連、安保闘争とか、学生運動が盛んな時代であった。 飯田橋辺りの居酒屋では 日本の将来を語り合うグループもいたが オラも仲間たちも 皆基本的には親のスネをかじる連中だったが体育会系軟派研究会、似たもの同志が集まって いい女の情報交換に熱心であった。 国家を憂い軍歌が嫌いとかいうレベルではない、音楽的に軍歌というジャンルについていけない、ジャズに親しむことが時代の最先端を行くようで 進取の気象質実の風 青年日本の代表者、パイオニアの気概を持っていた。 要するに日米安保に興味もなかった、意味もよく知らなかった、同学部の女子大生◎○さんはキレイだけどアホだ・・とか、あの子はなかなかいい子だ・・・とか、女談義がメインテーマ、バイトの情報交換、リーグ戦の試合内容と酒の肴の内容が大事なのであった。

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戦後の焼け野原に進駐軍が持ち込んだジャズが流れ それを聴きながら育った子供たちが

やがてプレスリー、ビートルズ、Mジャクソンのポップス系にも流れてゆく。

イェーイ、ウォー・ウオーの元祖は彼等である。 軍歌を唄う大人たちはそれをおちょくって イェイェ・・ウォ・ウォ・・・を家々、魚魚・・・と解釈していた。 古い歌手がこれをやると 本当に家・家、魚・魚(ハウスとフィッシュ)になるから 若者からみると それがダサくてむしろ面白かった。 

軍歌は大人たちには 昭和の時代を懐かしみ、自分を労う応援歌だったのだ。 

オラたちの世代は「軍歌」に相当するのは野球の聖地「神宮」で歌い聞いた「応援歌」だ。

これを懐かしむと他校の校歌・応援歌にまで涙出ることもあるから・・・バカだねー。

対戦相手の校風や応援歌をおちょくって 野次り、先輩から伝承された伝統的な替え歌まで色々アレンジしたものであった。 

例えば 慶応 テイノー・テイノー・リクノモウジャ・テイノー・・・

早稲田 ヤセタ・ヤセタ・ヤセタ・やせた・やせた・やせた・死んだ・・・

ホーセー・オオマタマケタ・・・ときやがった。 

六大学全部にそれがある、中には名作もあった、何故か東大だけはそれを揶揄する替え歌がない、ムキになって野次る必要もない、東大だけはお得意さん、安全牌だからである。 勉強で対抗しないから せめて野球は絶対に負けない自信があったから。  

法政の応援歌に野球専用で詩の内容がいいのがある。 これはおちょくりようがない傑作である。「制覇を誓いて鍛えし腕(カイナ)見よこの振興の気概、恐れぞ無き力持って 征け・闘え・・破れ堅塁を・・」    

立教 St,Paul,s will shine tonight ・・これもお洒落で良かったね。

子供の頃、東京地区には「えんがっちょ」という不滅の大ヒットがある、昭和の後期には幼稚園児を対象に一世を風靡した「カラスの勝手でしょ・・」志村ケン作詞の大ヒット曲もある。

全部出すとまた長くなるから 次回に。

◆余談 また余計なことまで思い出してしまったが 大学卒業式の夜 共にヤンチャな遊び仲間4人で渋谷のバーへ祝杯挙げに行った、紅一点(女と分類していなかったが)ノリちゃんが目を真っ赤にしている、化粧が落ちて黒い涙? ナンダその顔?  校歌斉唱の時 初めてガツンときた、急に涙がこみ上げた・・・、しおらしいこと言うじゃん、女の子みたいじゃん、 シッツレーねぇ!私は女性ですから、・・今日くらいはメイクするわよ! むっとして ハイボールをガバガバおかわりしていた。 最終学府の旅立ち、振り返っても もう戻れない、そこのところが心を揺さぶった、アイラインが頬を流れるほど涙が氾濫したのである。   

小中・高と三度も卒業を経験したのに「仰げば尊し」で泣いたことはなかった、誰でも皆同じ心境である。 後に子供たちが幼稚園行く年代になると「いつのことかな思い出してごらん あんなことこんなこと あったでしょ・・・」この歌は名曲である、かなりの確率で親と先生のほうが号泣するようになっている。

 

将来、孫たちが大人になった頃、宴会で軍歌を唄う年長者がいない、戦争という哀しい出来事は人類の記憶の範囲から忘れ去られる時代になって 世界中どこの国にも軍歌のない時代になるのが 一番いいけどね。 平和とは そういうことが長く続くことなんだね。

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