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昭和の腕白武勇伝(1)応援歌

若い頃は軍歌を歌う大人が嫌いだった、世代的格差もあるが会社の先輩やお偉いさん世代が宴会で軍歌を歌うころは そろそろお開きなのである。  オラの世代、若手はそれを聞かされながら つまんねぇ、全然面白くねぇ・・と酷評していたものであった。

ここはお国の何百里 離れて遠き満州の・・・??? 私は日本の歌でこれが一番キライ、これを感無量で唄う年長者の気持ちが解らない、今でも解らない。 メロディもリズム感も 音楽的にはまるでつまらねぇ、暗くて暗くて、戦う前に寒くて腹へって死にそうだ、あんなリズムだから日本は負けたんだよ・・・と思ったりしていた。 

高校生のときに観た「騎兵隊」、ジョンウェイン主演の南北戦争を舞台にした西部劇映画、北軍の騎兵部隊が行進しながら合唱する 映画のタイトルバックの曲

(ホースソルジャース・騎兵隊のマーチ)

♪アイレフトマイラブマイラブアイレフト スリーピングインハーベェド アイウィルマイバックオン マイトルゥラヴ フォファイティングジョーニィレッド アイノダゥンゼイゴーゼアス゛ノーサッチワードアズキャアント アンビーマイヴァクオン ニユーオーリーンズ フォーユリシーズシムプスンズグラント・・・

このほうがずっとカッコよかったよ。 音楽的にも内容も、ただし英語のスペルが分からない、そらで憶えて口ずさんだ歌詞である、(聴覚の記憶・・・かなりいい加減かも)

アバウトに翻訳すると・・・彼女のベッドで一緒に寝てたのに 南部の赤い野郎共と闘うために行くのだ やっつけてから必ず愛する彼女の元に帰ってくるから、俺たちに出来ないという言葉はない、ニューオリンズを攻略するぞ、敬愛するグラント将軍と一緒に・・・。 ジョニィレッドとは南部の奴らをおちょくった呼び方、ちなみに南軍は北部人をヤンキーと呼んだ、これも軍歌なら軍歌はこうでなくっちゃ・・・である。 戦いに行くのだから陽気に 景気よく勝つことしか眼中にないとこがいい。 彼女と寝てたのに戦いに行くぜ・・必ず戻るぜ・・・陽気で前向きで・・・・ここがアメリカ民族の強さなのだ。  戦時中の日本だったら不謹慎でケシカラン・・と、問題になる歌詞である、そんなことだからダメなんだよ・・・と云いたくなるのよ。 

昭和20年、太平洋戦争が終わった、焼け野原になった東京の街に やがて進駐軍が持ち込んだジャズが流れて、それを聴きながら育った子供たちは いつの間にか憎い敵国のはずのアメリカが好きになってしまった、ジャズという音楽文化のファンになってしまった。

威勢の良い軍歌の行進曲、「錨を挙げて」のほうが軽快で爽やか、「軍艦マーチ」に意気高揚とするのはパチンコ店へ行ったときくらいだった。  どこの学校の吹奏楽部も校歌のほかにヘィグッドゥウェーマィボーィ「錨を挙げて」は必ずレパートリーにあった。 若者にはアメリカンマーチを心地よく受け入れることができたのである。

不良オヤジの雑学 アメリカ南北戦争は 革新的な北部工業地帯と保守的な南部農業地帯の戦争、 南軍はリー将軍、北軍のグラント将軍は戦後大統領となる。

人民の人民による人民のための政治・・・リンカーン大統領の演説もこの時代である。  慶応義塾を創設した福沢諭吉先生の有名な言葉「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず・・・」これはリンカーンの名言に似ている・・・天は人の上に人を乗せて人を造る・・・慶応をおちょくっているのではないが 当時のオレらには この方が真理であった。

 幕末には 龍馬のように若き志士たちが天下国家を論じたのであろう、 神宮の試合が終ると祝勝会または反省会、どちらかの名目で飲み会の有志を募る。  全学連、安保闘争とか、学生運動が盛んな時代であった。 飯田橋辺りの居酒屋では 日本の将来を語り合うグループもいたが オラも仲間たちも 皆基本的には親のスネをかじる連中だったが体育会系軟派研究会、似たもの同志が集まって いい女の情報交換に熱心であった。 国家を憂い軍歌が嫌いとかいうレベルではない、音楽的に軍歌というジャンルについていけない、ジャズに親しむことが時代の最先端を行くようで 進取の気象質実の風 青年日本の代表者、パイオニアの気概を持っていた。 要するに日米安保に興味もなかった、意味もよく知らなかった、同学部の女子大生◎○さんはキレイだけどアホだ・・とか、あの子はなかなかいい子だ・・・とか、女談義がメインテーマ、バイトの情報交換、リーグ戦の試合内容と酒の肴の内容が大事なのであった。

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戦後の焼け野原に進駐軍が持ち込んだジャズが流れ それを聴きながら育った子供たちが

やがてプレスリー、ビートルズ、Mジャクソンのポップス系にも流れてゆく。

イェーイ、ウォー・ウオーの元祖は彼等である。 軍歌を唄う大人たちはそれをおちょくって イェイェ・・ウォ・ウォ・・・を家々、魚魚・・・と解釈していた。 古い歌手がこれをやると 本当に家・家、魚・魚(ハウスとフィッシュ)になるから 若者からみると それがダサくてむしろ面白かった。 

軍歌は大人たちには 昭和の時代を懐かしみ、自分を労う応援歌だったのだ。 

オラたちの世代は「軍歌」に相当するのは野球の聖地「神宮」で歌い聞いた「応援歌」だ。

これを懐かしむと他校の校歌・応援歌にまで涙出ることもあるから・・・バカだねー。

対戦相手の校風や応援歌をおちょくって 野次り、先輩から伝承された伝統的な替え歌まで色々アレンジしたものであった。 

例えば 慶応 テイノー・テイノー・リクノモウジャ・テイノー・・・

早稲田 ヤセタ・ヤセタ・ヤセタ・やせた・やせた・やせた・死んだ・・・

ホーセー・オオマタマケタ・・・ときやがった。 

六大学全部にそれがある、中には名作もあった、何故か東大だけはそれを揶揄する替え歌がない、ムキになって野次る必要もない、東大だけはお得意さん、安全牌だからである。 勉強で対抗しないから せめて野球は絶対に負けない自信があったから。  

法政の応援歌に野球専用で詩の内容がいいのがある。 これはおちょくりようがない傑作である。「制覇を誓いて鍛えし腕(カイナ)見よこの振興の気概、恐れぞ無き力持って 征け・闘え・・破れ堅塁を・・」    

立教 St,Paul,s will shine tonight ・・これもお洒落で良かったね。

子供の頃、東京地区には「えんがっちょ」という不滅の大ヒットがある、昭和の後期には幼稚園児を対象に一世を風靡した「カラスの勝手でしょ・・」志村ケン作詞の大ヒット曲もある。

全部出すとまた長くなるから 次回に。

◆余談 また余計なことまで思い出してしまったが 大学卒業式の夜 共にヤンチャな遊び仲間4人で渋谷のバーへ祝杯挙げに行った、紅一点(女と分類していなかったが)ノリちゃんが目を真っ赤にしている、化粧が落ちて黒い涙? ナンダその顔?  校歌斉唱の時 初めてガツンときた、急に涙がこみ上げた・・・、しおらしいこと言うじゃん、女の子みたいじゃん、 シッツレーねぇ!私は女性ですから、・・今日くらいはメイクするわよ! むっとして ハイボールをガバガバおかわりしていた。 最終学府の旅立ち、振り返っても もう戻れない、そこのところが心を揺さぶった、アイラインが頬を流れるほど涙が氾濫したのである。   

小中・高と三度も卒業を経験したのに「仰げば尊し」で泣いたことはなかった、誰でも皆同じ心境である。 後に子供たちが幼稚園行く年代になると「いつのことかな思い出してごらん あんなことこんなこと あったでしょ・・・」この歌は名曲である、かなりの確率で親と先生のほうが号泣するようになっている。

 

将来、孫たちが大人になった頃、宴会で軍歌を唄う年長者がいない、戦争という哀しい出来事は人類の記憶の範囲から忘れ去られる時代になって 世界中どこの国にも軍歌のない時代になるのが 一番いいけどね。 平和とは そういうことが長く続くことなんだね。

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