カテゴリー「不良オヤジの雑学」の12件の記事

翼よ あれが巴里の灯だ

1927年5月20日、ニューヨーク ルーズベルト飛行場を飛び立ったプロペラ機 スピリットオブセントルイス号が翌日まで一昼夜かけて大西洋を横断 フランス巴里のル・ブルジュ空港に到着、無着陸で人類初めて大西洋横断飛行に成功した チャールスリンドバーグの伝記映画、ジェームススチュアート主演。  日米の太平洋戦争がはじまる15年も昔の時代だから
無着陸で大西洋を渡る航続距離の新記録!当時は大変な快挙だったのである。
リンドバークが帰国後 マンハッタンでパレードしたり英雄扱いの大騒ぎになった。
この映画は小学校の時 学校で観に行きました。  映画くらいしか情報源のない時代だったし、教科書で学んだことは忘れているが 半世紀経った今でも ちゃあんと映画の内容は記憶に残って なんとなく勉強になっている。
子供たちは喜ぶし 教育的な映画を鑑賞させるのも 案外良い方法かもしれない。  歴史事実、歴史認識、道徳・・など、先生の口からではなく 子供自身の感性に委ねる・・・今どきの学校では こんなことやってるのだろうか。
「砂漠は生きている」「喜びも悲しみも幾年月」「黒澤明・蜘蛛の巣城」、なにを観に行ったかまで覚えてる子もいるから・・・・・学校でいかなくても 友達と自主的に観にいった映画、明治天皇と日本海大海戦、「皇国ノ興廃コノ一戦ニ在リ 各員一層奮励努力セヨ」・・・・このあと軍艦マーチが流れて、カッコいい〜と心踊らせたのである。
現代の平和主義教育と逆行するこの台詞を、小学生のガキが覚えてしまった。  今どきこんなガキがいたら凄いよ。  日露戦争は教科書で学ぶが 東郷平八郎まで覚えたガキもいるのは 映画の場面が興味深く記憶に残るからでしょう。  
神風特別攻撃隊、七人の侍、・・・・ 男の子だから こういうのが好きなんだね。
笛吹童子、鞍馬天狗・・・子供らしいのも随分観に行ったよ。  「風と共に去りぬ」「七人の侍」ここらは大人になってからでも もう一度観てみたいよ。 
歴史事実と認識は違う、現場にいた人はいないのだから 本当のところは どうだったのか、現代に伝わる話と現実は違うことも沢山ある、 嘘みたいな話が沢山ある。  現代人には意味判らないのも、
Photo 例えば昔から歴史の教科書には必ず出てくる 誰もが一度は見たことあるフランス革命、ドラクロアの有名な絵画、民衆の先頭で旗を掲げる自由の女神、  この絵見るたびに思うのは 戦闘中なのにおっぱい丸出し、戦闘準備になってないよ。 これだから革命軍が奮起した? だからって、どうでもいいことだけどね。
酷い話もある、マリーアントワネットの言葉「民はパンが食べられないならケーキ食べればいいでしょ」、 なんと世間知らず、暗愚な話である。  ベトナム戦争、サイゴン陥落のとき、大統領公邸には大統領夫人の靴が三百足もあったらしい。 ベトナム人民は靴を履いている者はいなかった、皆はだしだった。  こんなんじゃ戦争にもなるよ。    権力者と国民の格差が大きいほどもめごとになるのが人間社会である。  日本の徳川時代、絶対的権力者家康の死因は 鯛の天ぷらを食べて体調崩した、 蛋白質は 煮干しくらいしか食ったことがない、子供の頃から粗食で 鯛の天ぷらなんて生まれて初めて、米の飯も満足に食ってない。 ろくなもの食ってなかったからである。 同じ独裁者でも 家康のほうがずっと庶民的だよ、というか セコイ、現代の政治家が回転すしで百円の大トロ食いに行くようなもの、寿司くらい自分の金で一流店で食えばいいじゃん、この日本人の伝統的セコイところが情けない。
歴史のネタならなんぼでもあるから かなりいい加減だけど この先時々面白そうなの選んで公開するよ。    古代から現代まで 世界史も日本史も いろんなことがあったから 現代の このろくでもない世界でも色々あるが 人間は皆なんとか頑張って生きているんだね。
「翼よ あれが巴里の灯だ・・・」後になって脚色しているから歴史的名言は大袈裟で皆かっこ良く後世に伝えられるようになっている、感動的な映画だったよ。  実際に現場では どんな会話があったか・・・それまで調べたら身もフタもなくなるが、リンドバークさんは目的地の巴里飛行場を通り過ぎていたことに気がつかなかった。  着陸してから 飛行場のスタッフが沢山集まってきた。
その時 最初に云ったことば 「すいませ〜ん・・・トイレはどこですか」 
 
また余談になりますが アメリカの空港は大統領の名前、地域の功労者等 街、橋、駅、建物、公共物に人の名前をつけることが多い、 偉い・凄い・と思った人気者をとことんリスペクトがアメリカ人気質なのでしょう。
 最近ではアメリカ海軍空母が大統領ばっかりになってきたよ。
大統領以外でも 昔からあったエンタープライズ、キティホーク、インディペンデンス・・・かっこいい名前つけるよ。 インディペンデンスが おいらにはディープインパクトに聞こえるのは なんでだろ?   ジャズの発祥地ニューオリンズは アームストロング空港、LAにはロングビーチ空港とハリウッドの元祖喜劇俳優ボブホープ空港がある。  ボブホープのために 同じ都市に二か所の滑走路を造ってしまった。 近い将来 シアトルかフロリダもイチロー空港と呼ばれるようになるでしょ。
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

総司の恋・遼太郎文学の新撰組

「おけいは泰之進を無邪気な男だと思った。おけいの体を初めて抱いたとき、「ああ。おんなはいい。おれは京へのぼったのは、京のおんなを抱きたかったからだ」と あどけないほどの高調子でいった。   おけいは、この男に尽くしてやろうと決心した。ときどき、泰之進の体から血のにおいが匂ったり、着衣に返り血がついていたりして、おけいはおぞ毛の立つこともあったが、その無邪気な顔を見ていると、この男が毎日のように京で人を斬っている新選組の浪士だと思えなくなるのであった。」(油小路の決闘)

新撰組血風録、司馬遼太郎先生のこんな文章が好き、オラが評価するのも僭越だけど オラ遼太郎先生のファンだからな。  新撰組はコワイ侍の集団、怖い人にも優しいところがある、優しい人間性を見つけようとしている。 遼太郎文学・・オラやっぱ好きだな。 この怖い男たちが愛嬌あって 特別悪い男たちと感じない、

日本の四季、歴史・伝統、生活習慣等が学べる・・・。

剣道という運動競技の観点から考察すると 新撰組で最強は沖田総司である。 

池田屋へ斬り込んだのは 近藤、沖田、山倉新八、藤堂平助の四名、新撰組の最強ベストメンバーである。 今の巨人に例えれば坂本・小笠原・ラミちゃん・亀井てとこかな。

一人の死傷者も出さずに 倒幕派浪士二十数名に勝った。  この激闘で沖田総司が吐血したのが新撰組としては大損害であった。   四名では不安・・・との思惑もあったが 敢えて決行したのは 総司がいれば大丈夫であろう、 総司は百人に値する抜群の剣客という近藤・土方の高評価があったからである。

総司には「恋」もあった。 清水寺の茶屋へ餅を食べにゆく、美しき少女お悠が毎月八のつく日に清水の滝へ水を汲みにいくのを知っていた、「あの娘を遠くから眺めているだけで良いのです、清水の桜もキレイだな、来年もこの桜見れるだろうか・・・」頬を赤らめながらポツリと言う。  あいつ色気づきゃがったか、子供じゃねぇんだ もう21歳だ、嫁に貰ってやりたい、どんな女か見てきたい・・・、歳三は総司が不憫でならない、子供の頃から兄のように慕ってくれる この素直で純粋な若者が 愛しくて 心配で、強引に清水へ同行したのである。

恋しい人を遠くから見ているだけでいい・・・野菊の花を摘んで お悠に渡したい、少女のような感性と優しさ、毎日のように人を斬る総司のお悠を見つめる瞳が何故あんなに悲しいのか、それがやりきれない、歳三は見ていられないほど切なく哀しいのだ。 

 篠原泰之進のように 通りすがりの女を抱きすくめ 俺の妾になれ・・・、そんなタイプの変なおじさんの集団、それが通用するなら ある意味良き時代かと平成の変なおじさんには羨ましい話であるが、 新撰組にも 総司のような純情がいたのである。

ガキのころから体の弱い子だったが 欲も裏表もない いいやつなんだよあいつは、桜の小枝を折るくらいの感傷で人を斬るのは 生まれつき背負った不運に せめてもの反抗を示すように思えて 総司を見ていると泣きそうに切ない思いになる歳三であった。

 血も涙もない 冷たい男と後の時代にまで皆から嫌われた歳三にも アットホームな心配事を抱えていた。  自信家の歳三が 唯一の気がかりは 可愛い弟分「総司」のことだけであった。

怖い男土方歳三にも涙するときがある。新撰組の人は みんないい人のように思えてくるから不思議である。  遼太郎文学が伝えたいのは「人間の優しさ」だ。 「人の幸せは優しさ、優しさがヒューマニズムの原点だ。  遼太郎文学のここが好き。

◆沖田総司の愛刀は「菊一文字則宗」国宝級の超高級品である。 車ならロールスロイスorフェラーリ? 遼太郎先生は 美しき天才剣士には気品の高い刀が似合っていると、総司を刀によって更に美しくスマートに描いたのです。 しかし毎日人を斬っていたなら もったいない。 実際には大事にしまっておいて 実戦用は何本も使用していたのです。  新撰組は元々武家の出身者ではない、先祖伝来の家宝の刀がないから 皆武士のシンボル刀に憧れていた。 ブランド品に拘った。 近藤勇は「虎轍}を愛した、有名な話である。 これも雑学、そのうち刀のお話もやってみたい。    

新撰組血風録原文「(総司が妙な咳をする)と土方が気づいたのは、元治元年の3月のころであった。「ひょっとすると、近藤さん。あいつは労咳かもしれねえな」「ばかな。咳ぐれえは、おれだってする」「あんたの咳とは違う」「思い過ごしだよ。あいつの咳は子供のときからだ。まあ、いずれ、いい医者があれば診せるとしよう」近藤にとっても土方にとっても沖田は実の弟のような気がする。二人とも末弟で弟というものがなかったから、そういう実感でした。この年、沖田総司21歳。近藤勇31歳、土方歳三30歳である。これに井上源三郎を加えて4人が天然理心流近藤周助相弟子であった。この4人には、他の武士には見られない「友情」があった。総司の両親は若い頃死んだ。労咳であったかと思われる。総司は姉のお光に育てられた。総司が同志ともに江戸をたつとき、お光は道場までやってきて、近藤と土方に「総司のこと、お願いします」と細い指をそろえて頼み入った。

「総司さん。若先生を父、土方さんを兄と思って、おつかえするように」「いやだなあ」近藤と土方は大真面目で「実の弟以上の気持でお引き受けします」と答える。しかし竹刀を取らせれば、近藤も土方も、この若者に及ばない。何万人に一人という天稟を持って、沖田は生まれついていた。しかし、彼は欲というものを置き忘れてこの世に生まれたような若者であった。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

多摩川の新撰組

土方歳三

◆分倍河原

JR南武線 府中本町の先に分倍河原という駅があります。

この辺の多摩川の河原で 江戸時代には盗賊グループが強奪した金品を分配していた。

分配河原が 現在の分倍河原になったそうである。 仲間同士で揉めて死体が転がっていたという噂もあった。 多摩川の釣りでオラ専用の絶好ポイントがある 幕末だったら 盗賊の死体に出くわして・・びっくりすることもあり得たような場所である。 広大な河原には森が点在する、草原には四季の花が咲き乱れ、野鳥の巣もある、 東京に残された緑豊かな自然がいっぱいのところだ。  よく通ったオラが大好きな場所だ。 

ある時 腹が痛い・・・下痢したか? 我慢の限界で まずスッキリしてから自然を堪能しよう、人影はないし オレの庭だ、気兼ねは要らネェだろと、草むらに隠れて野グソを決行した。(河原では 誰でもやってんだよ、オラだけじゃないよ) 尻を出した瞬間に激痛が走った!?、 ぶよに刺されて・?・・一人で大騒ぎ、その後皮膚科へ通院したこともあった・・・◎×▲??・・・・・(自分のこととはいえ ドキュメンタリとはいえ、ここまで云うからシモネタとみんなに叱られる、分かっちゃいるけどヤメラレネ、 真実が正義と容認されないこともある、平和な現代文明社会は本当のことを云うとろくなことにならない時代である・・・)振り返れば激動と激痛の昭和、我が青春回顧録は随分危ない目にあったものである。

読者様へ 2006年春、このブログをスタートした頃は「歴史の勉強」が多かった。  一度は歴史小説を書いてみたかった、史実に基づいた話をフィクションに置き換えて伝えるのは難しい、ブログは日記形式なら楽だけど小説はフィクションだからね、完全なフィクションこそ小説の真髄かもしれない、日本文学は私小説、アバウト・ミーが基本である。    宮沢賢治、芥川、漱石が凄いのは ゼロから100%フィクションが創造できるからである。 漱石は猫になれるから凄いよ! 

「魔界転生」では柳生十兵衛が宮本武蔵と闘う、川中島に自衛隊が参加する「戦国自衛隊」・・・オラはこういう歴史小説が好き。  歴史小説は史実を主観で解読して未来に生かすことである。 歴史は良いことも悲しいことも何かに役立てなければ価値がない。  過去を捨てることは出来ないそれでいいのだ。過去は現実だから。 過去があったから現在の自分が存在する、人間がエライのは過去があるからだ、過去を反省したり感動したりしながら向上しようとするから 素晴らしいのだ。 

オラ才能ないから 我が敬愛する遼太郎先生のようにはいかないが長くなる予感、いい加減オヤジのマイウェイセミドキュメンタリー・・、史実を別の角度から解読して、半分史実で半分物語である。 桜も咲いて暖かい春がきた、病気のことも忘れて心豊かにボチボチ長編を更新していきたい。  長くならないようにマヌケなところで区切ったりすることもあるが 気合入れて読んでくださいね。

参考資料 司馬遼太郎「燃えよ剣」「新撰組血風録」「関が原」          下母沢寛「新撰組始末記」、宮本武蔵「五輪の書」、・・・等、三十年も昔に読んだことだからかなり曖昧になってきた・・・??韓流「冬のソナタ」⇒これは去年だけど・・関係ないか?

武蔵の国多摩(現在の調布市、日野市周辺)で生まれ育った土方歳三は武家の息子ではない、家業はクスリの行商であったがあちこちでトラブルが絶えず少年時代から喧嘩に明け暮れる不良系であった。  村祭りで一目惚れした女を巡って 三角関係のライバル()を本気で殺してやりたいと この分倍河原へ誘い出し決闘をした、殺した後 盗賊の仕業にみせかけようと下見までしていた。 互いに刀を振り回すだけのシロウトだったため 傷を負わせただけで息の根を止めるまで到らなかった。

歳三は 後に新撰組副長になった京都でもこの事件の悔しさが記憶に残っていた。

色白のイケメンで自尊心が強い、俺の女に手を出す男はいない、絶対に許さぬ。

あの女を抱きたい、あの男を殺さなければあの女と安心して寝られないではないか、絶対に生かしてはおけぬ、喧嘩に作法は要らぬ、死んだほうが負けだ。 策略もアンフェアも関係ない、狙った敵は 絶対に息の根止めるまで斬れ・・・これが歳三の哲学となり 彼の個人的性格、猜疑心に満ちた暗いイメージが 後に京都の治安を守る新撰組という集団の個性に反映させてしまった、彼等の理想とはうらはらに 世間には狂気の殺人集団と怖れられ、維新の哀しい歴史物語のひとつになるのである。

分倍河原の果し合いがきっかけで「人を斬れる男になりたい」、それだけの動機で天然理心流試衛館道場に入り浸ることになり 近藤勇と後の人生を共に歩くことになったのである・・・つづく

Photo

追伸・江戸時代の多摩川は「武蔵の国」だったのです、オラ多摩川の本流より西側川崎からは相模の国相州かと思っていたよ、多摩川は江戸、相模川から西が相州?!  自分はハマッ子、巨人より横浜が好きだけど 生まれも育ちも江戸の子だったよ?!新たな発見である、歴史の勉強は地理も学べる、戦国時代の日本地図は現代と大分違う、そういえば世界地図も昭和と平成では国の名前が変っているのもある、世の中常に流動的であります。

 一生勉強・一生不悟。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

花の漢字

“文字”は基本的に“絵”から発展したものです。

漢字をよくみてみると 山は山のような形をしているし、川は水が流れているようで、

目も口も木も・・絵がそのまま文字になっているように見えます。

花はどうか?

「草冠」に「化ける」・・・・草冠は 地面から植物の芽が出た絵に見えます、

その芽がやがて美しい花に化ける・・・だから「花」という字になった。

組み合わせで意味が完成し 文字になるのです。

漢字は紀元前頃?大陸(漢)から伝わったものですが 

日本人は器用だから それを元にして“かな”という日本オリジナルの文字を作り、

中国の字(漢字)を解りやすくアレンジして日本の文化に進化させてしまった、 

日本語の漢字は 難しい字でも分析すれば読めるような仕組みになっているようです。

私の場合、例えば英語なら 知らない単語をいくら眺めていても意味は分からない。

文字の入力も字数の少ないローマ字変換のほうが速いらしが 自分はひらがな変換のほうが慣れているし、変換候補が多いときなどは言葉を分割して 違う熟語から探すほうが速いこともあります。

中国語は“謝謝”と“再見”くらいしか知らないが、

発音できなくても 漢字なら大体の意味は見当がつく。

漢字は 文字そのものに形や意味があって 内容が広く味わい深いものだからです。

田畑で力を出して働くから「男」・・・日本人は農耕民族だからね、

「母」という字は“おっぱい”を描いたもの、「人」は二本足の人間の形、或いは左右のどちらか一方が欠けると倒れてしまい互いに支えあっている姿だといいます。

女が古くなって姑(しゅうとめ)、三人集まると姦(かしま)しい・・

意味と文字がドンピシャだね。

筍(たけのこ)は竹冠に旬、形と意味を表した純日本的な“表意文字”です、

秋の七草ススキは「薄」または「芒」、古くは「尾花」、

たそがれて 枯れ尾花(ススキ)が茫々とした様は オヤジの薄くなった髪を連想させるが 禿や抜け毛に悩むことはない、”わび・さび”の域に達した年輪を誇りにするべきだ、それでも悩むならアデランスやリーヴ21に相談すればいい、ちなみにオレは白髪だからビゲンヘアカラーだけど・・・

野で球を追うから野球、蹴るから蹴球(サッカー)、庭でやるから庭球(テニス)、

卓上なら卓球(ピンポン)、馬が競うから競馬、自転車で競うから競輪・・・

簡単なことだけど 素直にナルホドと思えばいいのです。

   

ということで、今回は花や果実の難しい漢字を集めてみました。

初めて出会う字でも 花や野菜についての知識があれば文字の形を連想したり分解したり、意味の範囲を広げていくと答えが出るのが日本語文化の特徴です。

瓜(ウリ)に爪(ツメ)あり、爪にツメなし・・・

小学校の国語で こういう教わり方をしたのだが、

なぜウリに爪があって ツメに爪が無いのかは いまだに不明だ。

西洋の瓜メロンは甜瓜(舌に甘い瓜)、ちなみにスイカは西瓜、カボチャを南瓜と書くのは 原産地の方角のことか?

調べてみたら北瓜もカボチャ(西洋カボチャ)だそうです、 

東瓜は?・・・分からなかったが、

方角と関係ないが キュウリは胡瓜、トウガンは冬瓜、ヘチマは糸瓜と書く。

木瓜はボケである、キュウリを木瓜と思っていたら ボケ!といわれる?

Photo カボチャ畑

Photo_3 ヒマワリとコスモス

向日葵・・・ヒマワリの性質を知っていれば これは簡単、

薔薇・・・・バラ、読めるが書ける人は少ない(私も書けないが)、

この字は画数が多くて なんとなくゴージャスな感じがする・・・(シネェカ?)

さるすべりの木は 幹や枝がつるつるしてさすがの猿も滑ってしまうのではないか?

夏になると次々と紅い花を百日も咲かせるからという中国語の「百日紅」を

日本では「さるすべり」と読むことにしたのです。

昭和の時代には “田園”という喫茶店がどこの街にもあった。

合歓(ねむ)・檸檬(れもん)・馬酔木(あしび)・・・など、

レトロでお洒落な雰囲気を出そうとしてこんな名のスナックもあった。

敢えて難しい文字を使い、客が読めないからと気まで使って看板にフリガナしてる、

馬酔木なんて酔っ払いが行くにはピッタリの店だ。 本件とは全然カンケーないが 川崎のスナック“合歓の里”のトイレのドアには「音入」と書いてあった・・・ここまで拘ると安っぽくなる(安いから通ったんだけどね)

結論として 古くて難しい漢字は読めなくてもどうってことはないが、

日本人なのに 珍しい漢字をおぼえると得した気分になるものです。

子供のころ 初めて蒲公英(タンポポ)を知ったときは“目からウロコ”だった。

なぜこれでタンポポなのか今でも解明できないが、この三個の字のどれかが黄色と関係あるように思えます。

Photo_2 2003_01010004

写真は初雪蔓(はつゆきかずら)、葉の色が緑・白・ピンクなどに変化して、斑点の部分がいかにも初雪を想わせる 渋~い日本的な観葉植物です。

蔓(かずら)とは つる性植物のことで朝顔や鉄線(クレマチス)など種類も多い、

    

“名にし負はば逢坂山の実蔓 人に知られでくるよしもがな”

百人一首 三条右大臣

逢坂山の実蔓(さねかずら)というつる性植物が 逢って共寝をするという名前であるならば 人に知られずそれを手繰り(くる)寄せ、恋しい人のところへ通う方法はないものか・・という意味の恋歌です。

「さね」とは「さ寝(愛人と添寝)」、逢坂山は「逢いたい」をひっかけている、

隠語・掛けことば・季語などを駆使した日本の言葉文化の傑作です。

一口で言えば“あなたと会ってHがしたい・・”ということだけどね、

“上品とは 欲望に対して動作がスローモーなやつ”

立川談志語録は この歌の批評か?・・・どちらも感性豊かな日本語文化です。

Sanekazura2 サネカズラ

屁糞蔓(ヘクソカズラ)というのがあります・・・本当だよ!

実物を見たことはないが(見ても気がつかない?)図鑑で見るとかわいい花なのにすごいネーミングをされたということは臭いからだろう、

毒溜(ドクダミ)だって清楚な白い花なのに臭いからね。

Hekuso3 ヘクソ蔓の花

蜜柑(みかん)・葡萄(ぶどう)・林檎(りんご)・杏(あんず)・・などは 

日本に古くからある果実だから字は難しくても馴染みがあるが、

メロンのような舶来種は店頭に並んだ歴史も浅いから難解なのが多い、

甘蕉(バナナ)・万寿果(パパイヤ)・鳳梨(パイナップル)・・・読める人はあまりいない。

ならばグレープフルーツは大葡萄柑、・・・・嘘! 

それでは去年の記事「魚の漢字クイズ」にアクセスが多く好評だったので 

今度は花・果実・野菜の漢字です。

REVEL 1.

①沈丁花  ②茄子  ③枇杷  ④牡丹  ⑤紫陽花

⑥胡桃  ⑦秋桜  ⑧浜木綿  ⑨桔梗  ⑩茗荷

REVEL 2.

①撫子  ②蕗  ③石楠花  ④女郎花  ⑤玉葱

⑥紫蘇  ⑦竜胆  ⑧無花果  ⑨菫  ⑩風信子

REVEL 3.

①独活  ②李  ③木通  ④紫丁香花  ⑤玉蜀黍

⑥鬼灯  ⑦梔子  ⑧石蕗  ⑨石榴  ⑩薇

                

(回答)ジンチョウゲ、ナス、ビワ、ボタン、アジサイ、

クルミ、コスモス、ハマユウ、キキョウ、ミョウガ、

ナデシコ、フキ、シャクナゲ、オミナエシ、タマネギ、

シソ、リンドウ、イチジク、スミレ、ヒヤシンス、

(REVEL3の回答は次回)

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

石油のはなし

不良オヤジの雑学 幕末編

 

Photo_142  山岡鉄舟に関わるおはなしがまだあります。

文久三年、朝廷から攘夷実行を促されていた徳川幕府は“尽忠報国の志あるもの来たれ” と関東一円に浪士を募集しました。

攘夷とは前述の“外国の圧力から日本を守ろう”という思想のことです。

 

力に陰りが出始めていた徳川幕府は 武士の失業対策を実行すれば世論の支持を回復し、浪士の雇用なら人件費もコストダウンできる・・・という思惑で、当初は五十人くらいを予定していたのに なんとそれが二百人以上も集まってしまった。 

それほど失業者が多かったかということですが 朝廷や世論への手前 多すぎる浪士を追い返すことはパフォーマンが逆効果になってしまうので具体的な仕事の内容も決まらず賃金支払いのあてもないまま とりあえず“上洛する将軍を警護し京の治安を守る”という名目にして京都へ向かわせました。 

幕末の行政が いかにずさんでだらしなかったかということです。 年金のデーター失くした社会保険庁みたいだね。

この募集案は庄内(山形県)の浪士清河八郎によるもので、これに応募してきたのが近藤勇・土方歳三ら多摩の天然理心流試衛館グループと水戸の芹沢鴨・新見錦、その他諸々で 彼等が後に「新撰組」になるのです。(いきさつや政治的背景が複雑で 検証が面倒だから この先はオレ流解釈でポイントだけのおはなしになります)

新撰組は 京都守護職会津藩松平容保預かり(アルバイト)ということで落ち着いたので、結果的に中央(幕府)の尻拭いを地方(会津藩)に押し付けてしまったようなものです。 そして この浪士隊の取締役に山岡鉄太郎等が任命されました。山岡はこの浪士隊を京へ連れてゆく世話役をやっただけで ここでは特別な活躍をしたわけではないのだが・・・

Photo_143

才能豊かで過激な尊皇攘夷の思想家であった清河八郎は 浪士隊のスポンサーが徳川幕府なのに これを朝廷の兵にする計画を持っていました。 それが“尽忠報国の志”を貫く彼自身の信念だった。

浪士たちを集め弁舌巧みに理想的な国家の在り方や尊王攘夷の理念を説いた、 判りやすくいえば 我々を採用したこの会社(徳川幕府)は将来性がないから 真に国のために尽くそうとするならば 伝統も将来性も確実な会社(朝廷)に転職しようではないか・・・というのです。  かき集めの浪人たちは どうせ無学で主義主張を持たぬアホばかりだと舐めてかかっていたのかもしれないが 彼等を洗脳し同調させる自信があったのです。

清河の情熱に賛同する者も多くいたが、「俺たちにはそういう難しいことは分からぬが その話は筋が通らぬ・・・朝廷を敬う気持ちに異論はないがまだ働いてもいないうちに 臨時とはいえ拾ってくれた徳川に背いては武士の一分がたたぬ・・・」

純粋な近藤や芹沢たちは反対であった。 

正しいか否かの問題ではなく 清河の態度が小生意気で横柄で、少しばかり学問が有るからとエラそうにしやがって、何だこいつは・・・と、近藤たちの気に障ったのです。 要するに自分の意見を一方的に演説する清河のトークが下手だったということになる。 このことが後に 幕府への忠節を誓う新撰組という武装集団の結束を固める結果になってしまうのです。

そして 清河は策略を企てる不忠で悪い奴だ・・・ということになり、佐々木只三郎らに麻布一の橋で斬られてしまったのです。

アタマが良くて勉強ができて 合理主義的な理論を展開することが出来ても 人の心に宿る素朴な正義感や価値観まで気配り出来ない者の悲しいところである。

Photo_144

山岡鉄太郎は清河八郎とは千葉道場で修業する同門であった。 山岡は清河が描く“報国の志”を評価して 彼の本質を理解できる一人だったから、清河の死を聞いたとき「嗚呼、天は奇傑を滅ぼした(日本は有能な人材を失った)」と嘆いたそうです。   幕臣である立場上、清河の計画に直接加担はしなかっただろうが、仮にそれを知っていたとしても そういうユニークなのもありかな?くらいの考えはあったのです。

Photo_145 Photo_146

同じ千葉道場に 山岡・清河と仲良し三人組の石坂周造という男がいた。      石坂は清河と意気投合する完全な同志であった。 二人は浪士隊を朝廷の兵にした後の具体的なことまで相談していました。

戦国の昔から 武田氏の山県昌景隊、徳川四天王の井伊直政隊、そして闘将真田幸村の部隊も、みな「赤備え」と呼ばれ最強と恐れられた、それにあやかって外国人と戦うときの陣羽織(ユニフォーム)を赤にしよう、全ての武具を赤色で統一したら なんとカッコいいではないか・・・、二人の夢は無邪気な少年のように限りなく広がり、その資金繰りを石坂が担当することになった。

 

石坂は以前から「石油」に興味があった・・・、当時は石油という言葉は日本にはない、「燃える水」とか「石炭あぶら」とか呼ばれて、火をつければ燃えることはわかっていたが世間の関心も低かったのです。

石坂はこれに目をつけていた、

越後あたりには燃える水が湧き出しているところもある(新潟油田)、これを利用して商品化すれば必ず需要があり金儲けができる、研究すれば武器にもなる・・、

燃える水に 未知の魅力を察知していました。

凄い先見である、石油の重要性を日本で最初に気づいた人だったのです。

Photo_147

ところが 清河が暗殺されたことを知りビビッてしまった。

自分は清河の同志だ、このままでは佐々木や近藤たちに狙われる、

これは相当ヤバイ・・・!

彼はサムライを辞める決心をして江戸を離れました。 

越後へ燃える水を見学にいったり その他の地方でも採掘できる場所を探したり、

もう尊皇攘夷・尽忠報国どころではない、以後は石油の研究に没頭してしまった。

 

そしてついに明治になってから 静岡県で手掘りによる日本最初の石油採掘事業の会社を創設し、後に日本石油株式会社による機械でのボーリングに代って、石坂没後も昭和になるまでこの事業は続いていたそうです。 

しかし日本は元々石油の産出量が少ないから事業は次第に衰退し、昭和三十年ころには全ての井戸が閉じられ 現在日本では 石油は百パーセント輸入になっているのです。

採油されたあぶらは 当時「石坂油」と呼ばれ日本中に広まりました。       現在日本語で石油というのは 石坂の“石”と“油”を組み合わせて「石油」という言葉になりました。

 

このネタは子母沢寛の「新撰組始末記」で拾ったはなしである(記憶が曖昧だけど)、そして石坂周造の妻は山岡精山の次女桂子(お桂)、鉄舟の妻英子さんの妹です。   山岡鉄舟と石坂周造は親戚関係になります。  

明治初期の静岡県知事山岡鉄舟が 静岡県相良町で事業を興した石坂の大きな力になったということが想像できます。

Photo_148 2003_02160025

5月26日 横浜市営地下鉄センター南駅「さつき盆栽展」

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

山岡鉄舟(その二)

◆江戸城無血開城

堅いはなしになってスマンが ここでまたちょっとだけ歴史のお勉強です。

明治維新とは? 

解りやすく言うと 徳川幕府による幕藩体制から明治政府による天皇親政体制への転換をいう、英訳はメイジ・レボリューションMEIJI EVOLUSIONです。

大政奉還(十五代将軍徳川慶喜が統治権を天皇に返還したこと)、

廃藩置県(地方政治の藩を廃止して中央管理下の府・県に一元化したこと)など、

昨今の郵政民営化なんてものじゃない、短い期間に体制・法律・税金・教育・住所表示・服装やヘアスタイルまで・・・「文明開化」というキャッチフレーズのもとに様々な改革が実施されました。

江戸時代、徳川幕府による ある意味平和な時代が三百年も続いたため

合戦を本業とする武士階級がヒマになってしまった、

武士のリストラや雇用制限が相次ぎ、何だかんだで浪人(失業者)が増えつづけた。

“武士は食わねど高楊枝”(めしも食えない貧乏なのにプライドが高いから楊枝をくわえて食ったふりをする)というのはこの頃の武士を揶揄したことばである。

ペリーの黒船来航をきっかけに 幕府に対する不満や外国に対する不安感が広がり、諸外国の圧力に対抗するには徳川幕府では頼りないから やはり日本人は天皇を頂点として一致団結するしかない・・・「尊王攘夷」の思想が明治維新のエネルギーとなりました。

そして 新しい日本を造ろうとする革新派(薩摩・長州など西国列強)と

徳川三百年の御恩を律儀に守ろうとする保守派(会津など奥羽同盟)に二分され、

鳥羽伏見の戦いを緒戦とする戊辰戦争へ突入したのです。

勝敗のポイントを握ったのは「王政復古」の号令を唱えた薩摩の大久保利通・公家の岩倉具視らの画策で 明治天皇から「官軍」のお墨付きをもらって錦旗(朝廷の旗印)を掲げた薩摩長州軍が勝利するのです。

一万五千の幕府軍が五千の薩摩長州連合軍に勝てなかったのは 近代兵器の差もあるが 幕府軍の侍たちが“錦の御旗”を見て 戦意喪失してしまう日本人特有の伝統的体質が原因のひとつにもなったのです。

鳥羽伏見の戦いに敗れた幕府軍は 総崩れとなって東へ逃げた。

東とは江戸である、江戸を拠点に体勢を立て直し 再び一戦交えようと新撰組などを中心とする過激派は まだまだやる気満々であったが、

江戸城内では 幕府の大将海軍奉行勝海舟の腹は決まっていた。

“時代の流れを食い止める力が徳川幕府には もうない、

これ以上日本人同士が戦って 日本の国力を落としては外国の圧力に対抗することが難しくなる・・・(尊王攘夷の思想は海舟も同じなのだ)、武士の意地だけで戦えば 不幸になるのは庶民ばかりだ、俺たちが刀を納めれば江戸の市民に犠牲者が出なくて済む“

山岡鉄舟に心を打ち明けた、 鉄舟も考えは同じだった。

「俺が南洲(西郷隆盛)のところへ死にに行こう・・・」

この使者は 鉄舟しか適任者がいないことを鉄舟本人も自覚していたのである。

海舟は西郷隆盛と和平交渉がしたいが 大将が直接出向くわけにもいかない、

そんなことをすれば過激派の暴発を諌めることができなくなる。

有識者の大局観からすれば人々の命と平和を守ることが真の正義で、 

武士の信念と忠誠心に燃える近藤勇や土方歳三は最早厄介者扱いなのである。 

その段取りとして 先ず過激派(新撰組)を江戸から遠ざけるため 甲府城の守備「甲陽鎮部隊」という肩書きを与え甲州(山梨)へ送った。

一番一生懸命やった者が放り出されることになる・・・それに気がつかぬ新撰組も哀れだが、冷たい処置を決断しなければならない海舟も辛かったはずである。

実際には それでもまだ上野の山に少数過激派が立てこもったが(彰義隊)一日で鎮圧されてしまった。

幕府は戦わないで江戸城を明け渡す、市民を巻き添えにしたくないから官軍も江戸の町へ大砲を撃たないでほしい・・・、という趣旨を事実上の大将である官軍の参謀西郷隆盛に伝えるために江戸へ進撃してくる官軍の本陣めざし 鉄舟は単身東海道を西へ逆走したのです。

駿府(静岡県)の西郷隆盛本陣へ到着したとき

「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄舟まかり通る・・・西郷さんに会いたい、案内をお頼み申す!」

馬上から大音声で官軍兵士の中を進んでいきました。

どうせ死ぬなら武士らしく堂々とした態度で死のう・・・

鉄舟は腕に自信もあったが死ぬ覚悟もできていたから、あまりにも悠々とした姿で官軍陣営の中を通って行くので、兵士たちのほうがビビッてしまって 銃を向けることも出来ずに「どうぞこちらへ・・・」の感じで 丁重に西郷本陣へご案内したのです。

2003_02025120003

後に西郷は「金もいらぬ 名誉もいらぬ 命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられぬ・・・」と賞賛した。

そして 官軍の江戸総攻撃を目前にして 西郷隆盛と勝海舟の会談が実現、当時の百万都市江戸は戦火から免れたのです。

Photo_101

戦争で敵兵を沢山殺す活躍をして 味方を勝利に導く功績のある人は「英雄」と呼ばれ歴史に名を残します。

私は平和主義的反戦論者ではないが

沢山の人を傷つけて国を統一した人よりも 戦わずに沢山の人の生命や生活を助けた人が 真の英雄だと思うけどね、

なのに なぜか山岡鉄舟も野口英世も・・・探せばまだ沢山いるはずなのに、

こういう人たちが歴史年表や教科書で 大きな扱いを受けていない。

Photo_102

鉄舟は清水の次郎長から こういう話を聞いたことがあった、

「てめぇ(自分のこと)より強ぇ相手と心底勝負するときは 

てめぇの命は捨ててかからなければ勝てっこねぇ、

相手を殺ろうとか 得しようとか 生き延びようとか、

ケチな考えがこれっぽっちでもあったら 喧嘩はハナから負けている・・・」

剣の師匠である鉄舟が 弟子の次郎長の喧嘩哲学に耳を傾けたのも 若き日の鉄舟に謙虚な向上心があったからである。

もしも次郎長の言葉が 鉄舟の覚悟と行動に影響を及ぼしていたとすれば 清水次郎長というヤクザ者も 江戸百万市民を救った陰の功労者になるのである。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

山岡鉄舟(その一)

◆赤胴鈴之介

赤胴鈴之介という人気漫画があった、

♪剣をとっては日本一に 夢は大きい少年剣士

  親はいないが元気な笑顔 弱い人には味方する

  がんばれ強いぞ 僕らの仲間 赤胴鈴之介・・・

昭和三十年代頃だったかな・・? テレビアニメにもなって、このテーマソングを知らない子供はいなかった。

秩父の山奥で生まれた鈴之介は 幕府転覆を企てる鬼面党の首領銀髪鬼に両親を殺される、父の形見の赤胴をつけて日本一の剣士になる夢を持って江戸へ・・・

千葉周作道場で修業の末、秘剣「真空斬り」を完成させる。

江戸市民を恐怖に陥れる悪逆非道な鬼面党が送り出す怪人を次々に倒し、最後は親の仇銀髪鬼を討って、江戸の街に平和が戻る・・というようなストーリーです。

ウルトラマンが毎週怪獣を倒し、仮面ライダーがショッカーの怪人と戦うのと同じようなパターンだけど これが当時の子供たちに大人気であった。

登場人物は 千葉道場のライバル「稲妻斬り」の竜巻雷之進、

恩師千葉周作とその娘さゆり、鈴之介を指導する剣の達人浪野十三、

鈴之介の親友で幕府の隠密柳生一太郎・・・など、

作者の武内つなよしさんに聞いたわけではないが、

この赤胴鈴之介のモデルになったのが山岡鉄舟である・・

な~んでか?

山岡鉄舟・・・幼名は小野鉄太郎、天保七年(1836)飛騨郡代小野朝右衛門高副(おのあさえもんたかとみ)の五男として生まれた。 

郡代とは 幕府が直接支配する領地(天領)へ中央から派遣される役人のことで、

時代劇でよく出てくる代官は六万石平均を差配するが 飛騨一国は十一万石の天領だから 事実上は大名と同クラスであった。

鉄太郎はここで少年時代を過ごし 大好きな剣術の稽古に励む。

17歳のとき両親が相次いで他界、剣で身を立てる決心をして江戸へ・・・。

北辰一刀流千葉周作の神田お玉ケ池玄武官道場の門弟として鍛錬の日々を重ねる。

剣術は天才的に強かった、若手では右に出るものはいない。

鉄太郎の夢は日本一の剣士、彼の青春は「剣術」しかなかった。

鉄太郎は 千葉道場へときどき稽古にくる山岡紀一精山という侍を尊敬した、

無敵の鉄太郎が どうしても精山だけには勝てなかったのである。

鉄太郎は精山の弟子になるため 山岡家の居候になった。

山岡家には 精山の弟で槍の名人精一(後の高橋泥舟)、精山の妹お英とお桂がいた。

鉄太郎は姉のお英さんと恋をして 精山の死後山岡家の養子としてお英さんと結婚、「山岡鉄太朗」と改名したのである。

小野家は大名クラスの名門で 山岡家は武士ではあるが身分が低く釣り合いが取れぬ・・、周囲の反対を押し切って婿養子になったのは 剣を志す鉄太郎にとって精山は敬愛する師匠であったことと お英との恋の両方だった。

鉄太郎は 武家の古い因習に目もくれない進歩的な考えを持っていた、

お高くとまったり 見栄を張ったりしない、

町人とも気さくに付き合ったから 清水の次郎長との交流も始まったのである。

ホントのところは知らないよ、お英さんが好きになったから精山先生のところへ押しかけたのかもしれないし・・・オレだったらそうなるけど 

そういう考えでは日本一の剣士は無理か?

京へ上る浪士隊(のちの新撰組)の世話役になり、

戊辰戦争のときには 徳川の使者として単身官軍の本陣へ乗り込み 勝海舟と西郷隆盛会見による江戸城無血開城を実現させて江戸市民を戦火から救った。

後にはついに剣の道を究め「無刀流」の開祖となる。

明治になってからは静岡県知事、明治天皇の侍従などを歴任・・・

波乱万丈の生涯であった。

鉄舟は剣・禅・書の達人として知られ、

勝海舟・高橋泥舟と共に「維新の三舟」と呼ばれる。

鉄舟は「号」である。

鉄太郎と鈴之介の共通点

一、山奥に生まれ、両親を早く亡くし、日本一の剣士を志して江戸の千葉周作道場で修業する。

二、鉄太郎の「無刀流」がどんな剣法か知らないが、刀を使わないという意味だとすれば 気合で相手を倒す鈴之介の「真空斬り」は これこそ無刀流である。

三、山岡精山は鈴之介を教えた浪野十三で、お英さんは鈴之介に恋をするさゆり?

四、鉄舟は官軍の江戸総攻撃から市民を救う、                鈴之介は鬼面党から江戸市民を救う。

五、町人と気さくに付き合う鉄舟の明るさは 元気な笑顔の少年剣士鈴之介だ。

・・・ということで、山岡鉄舟のストーリーをマンガにすると やはり赤胴鈴之介になるのだ、マチガイナイ・・・!

2003_01240003 2003_01060027_1

ところで、北辰一刀流の創始者千葉周作は 稽古で相手を傷つけないための竹刀を考案、江戸時代まで人を斬るための剣術を スポーツとしての「剣道」に発展させた人です。

柔術を柔道にした講道館の創始者加納治五郎のような人だと思います。

玄武館道場は 幕末の超一流名門道場として全国からの門人も多く、

山岡鉄太郎、清河八郎、山南敬助(新撰組幹部)などのほかに 坂本龍馬もここで習ったことがあるそうです。

物語の世界では丹下左膳や平手造酒も千葉道場出身ということになっています。

片目片腕の丹下左膳に 結核の平手造酒・・・重度の障害者と重症患者、二人ともボロボロの人生だが 若き頃は千葉道場という由緒正しい名門に学ぶエリートであったということを原作者は伝えたかったのであろう。

| | コメント (1) | トラックバック (0)
|

清水の次郎長(その三)

歴史小説には 現代にも通用する面白い話が沢山あります。

映画やテレビドラマで 物語の内容がどう描かれるか?

その登場人物が自分と違うイメージだったり、脚本家や映画監督や役者の個性によっても 違いがでてきたりします。

原作を知らないでドラマを見るよりも 原作を読んでおくと興味が広がるのです。

清水次郎長も大政も実在の人物だが、その他の子分たちは 似たようなモデルはいても 物語の中では夫々が興味深く味付けされてゆくから どこまでが事実かは疑わしい。

森の石松は片目だが、本当に片目だったのは三保の豚松という説もある、

居合切りの名人小政は元魚屋で、鉄砲鍛冶の関東綱五郎は一発だけ弾の入った拳銃を持っていたということを知る人は少ない。

次郎長の場合は お蝶さんに愛され 子分たちに信頼され 民衆にも慕われる人気者だから、その人間性を過大評価されて後世へ語り継がれたとも考えられるが、それなりの魅力を備えていたことは確かである。

男に惚れられるような男だから 女にもモテるのである。

次郎長は五十歳を過ぎてからも 賭博一斉取締りに引っかかったが 明治政府の要人榎本武揚や山岡鉄舟らとの親交があり、三代目お蝶さんが当局へのコネクションを使って奔走したおかげで 何とか釈放されたというような記録もあるから いい歳こいても博打だけは止められない、所詮は懲りないヤクザ者であったことは否めない。

こういう不良性?というか 完璧とはいえない部分が人に好かれる要因になるのである。

現代でも同じだね、

リーダーは 基本的にアタマが良くて能力の優れた人でなければ務まらないが

上司がアタマ良すぎて完璧だったりしたら 職場はピリピリして息苦しくなってしまう。

多少のボケやドジをする上司のほうが なぜか人気があって部下も能力をだせる。

(そのボケにも程度の問題はあるけどね・・・)

部下の能力を発揮させるのが上司の能力である。

忙しいとか やりづらいとか 疲れるとか・・・

仕事帰りの居酒屋で上司を肴に酒を飲める職場は どちらかいえば幸せで、文句や愚痴をいいながらやっているのが 一番いいときなのです。

リーダーの側からみれば 支持率30%なら合格、50%なら大成功である。

人間社会とはそういうところだ。

嫌われたっていいじゃないか・・・の勇気があれば、本当の自分が見えてくる。

最終的には 自分を理解してくれる友は一人か二人いればいいのだ。

Photo_96 Photo_97

次郎長は 幕臣屈指の剣術家無刀流山岡鉄舟に稽古をつけてもらっていた、

次郎長のほうが年上だが 若い鉄舟を文武の師と尊敬し

鉄舟もまた次郎長の人間性を高く評価していた。

山岡鉄舟は あるとき親友の勝海舟とこんな会話をしている。

鉄舟「俺の弟子に清水の長五郎という博打うちがいるが、これがなかなかの人物だ、礼節重く 人情厚く、子分や町人たちに損得勘定抜きで慕われている・・・、人心を掴むことについては旗本の俺たちなぞ足元にも及ばない、 

剣の腕はまるで素人だが 一直線の気迫で打ち込んでくる、

道場では赤子扱いだが 真剣では立会いたくないな、なにしろ俺は人を斬ったことがないが 奴は人を斬ったことがあるからな」

海舟「そりゃお笑いだね、お前さんほどのサムライでも一目置く町人がいるってぇのは嬉しいね、日本は面白くなりそうだ、これからは家柄や身分じゃねぇんだ、サムライだけが政(まつりごと)をやる時代じゃねぇってことだよ・・・・」

(勝海舟は武士なのにベランメエ口調で喋る、江戸っ子だということもあるが武家社会の古い格式が気にくわねぇ・・のである)

徳川幕府の重役(海軍奉行)勝海舟と 同じく徳川の直参旗本山岡鉄舟、

保守的な幕臣の中にあって、柔軟な思想の二人は このとき既に封建制度の終焉と民主主義の到来が近い将来に迫っていることを予感しているのである。

Photo_99

ところで 勝海舟と山岡鉄舟って、歴史的にどんなことをした人・・・・?

時代が激変するときは必ずヒーローが出現する、

世の中は手をこまねいて見ている人ばかりではないのです。

幕末~明治維新、日本史上最も激動的な時代に活躍したのは

坂本竜馬・西郷隆盛・木戸孝允・・・など、まだまだ沢山いるけれど、

後に高く評価され ヒーロー扱いされるのは どちらか言えば徳川幕府を倒して明治維新を成し遂げた改革派の人たちです。

私の子供の頃は 鞍馬天狗にやっつけられるのはいつも新撰組で、坂本竜馬や桂小五郎はいつも善玉で 幕府の侍はいつも悪役だった。

どうしてか?・・・

単純に言えば 薩摩・長州の官軍が勝って徳川の幕府軍が負けたからです。

「勝てば官軍(勝ったほうが正しい・・・という意味)」の言葉はここから始まった。

ところが 最近は新撰組の人気がでてきたね、 

善玉完全主義では つまらない・・・・時代の波に逆らって壮絶な青春を送った土方歳三や沖田総司の生き様がカッコいい・・と

現代の若者にも認められるようになったようです。

テレビで香取慎吾ちゃんが近藤勇をやったからかもね・・・

不良オヤジの雑学は メジャーよりマイナー嗜好だから

負けた徳川サイドにも人材がいたとか、あまり知られていないお話をします。 

Photo_94

シャガ(あやめ科)の花

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

清水の次郎長(その二)

◆次郎長の女房

清水次郎長には生涯三人の女房がいる、三人とも名前は「お蝶」、

初代お蝶は 次郎長の貧しく荒んだ青春時代を共に過ごした恋女房である。

貧乏な次郎長宅へ 旅のヤクザが宿を借りに来る、

(一晩泊めて食事と酒を振舞い 帰りには当面の旅費まで援助する、仁侠の慣習とはいえなんとも迷惑なはなしではあるが 世話になった旅人は一宿一飯の恩義に報いるために 命を賭けて喧嘩の助人をすることもある・・・)

家計が苦しいのにお蝶は嫌な顔ひとつせず 親分の顔を潰すまいと大切な着物や家財を質に入れることもあった。

日頃から貧しい一家を切り盛りしながら 子分たちにも優しい姉(あね)さんと慕われていたが、あるとき次郎長一家が喧嘩で人を殺してしまったため ほとぼりが冷めるまで旅にでる生活に同行したとき ついに過労が原因で病に倒れてしまう。

「苦労ばかり掛けちまった、お蝶すまねぇ・・・・」

臨終の枕元で 次郎長がお蝶の手を握りながら涙ながらに詫びると

「だらしがないねぇ、あたしは惚れた男のそばにいられて幸せだったんだよ・・」

お蝶の最後の言葉に 次郎長も子分も 無法者たちが一斉に泣き崩れる。

お蝶亡きあと次郎長の良き理解者となったのが「投げ節お仲」、

三味線小脇に旅をする 粋も無粋もわきまえた渡世の経験豊かな女博徒である。

次郎長に想いをよせていたが 亡くなったお蝶に義理立てをして 惚れているのにアタックをしない、

次郎長の方もお仲への想いを封印してお蝶への義理を貫こうとしている、 それが周囲に見え見えなのに・・・・。

ある時、ついにお仲は清水と決別の決心をする。

いつまでも私がここにいたのでは 次郎長親分を苦しめることになる、

親分も私も お蝶さんを裏切るようなことなんか出来ゃしない、

私さえいなければ・・・

溢れる涙を拭いながら旅支度をしているとき、呼び止めたのは大政だった。

「お仲さんも親分も 似たもの同志の意地っ張りだ、意地と義理とは違います、清水一家には姉(あね)さんが必要だ、このままじゃ あの世へ行った姉さんにまで気を揉ませてしまうじゃありませんか、亡くなった姉さんは 他の女が親分に惚れたからってぐずぐずいうような そんなケチなお人じゃねぇことは お二人とも とおに分かっているくせに・・・」

大政は次郎長にも同じように説得していたのである。

その後「俺んちへ来て 二代目のお蝶を名乗っちゃくれめぇか・・・」

やっとプロポース゛にこぎ着ける。

相思相愛なのに お互いが惚れたとは絶対言わない、

従って 祝言(結婚)ではなく 襲名披露という形で再婚したのである。

これなら二人とも亡きお蝶さんへの義理が立つ・・・大政苦肉のアイディアであった。

義理人情の世界がそうさせるのか、大人の恋って素直じゃないね。

女性の立場からすれば 先妻の名前を名乗るなんて 絶対むかつくよね、

現代では 考えられないようなことだ。

そして、お仲(二代目お蝶さん)までが

後に白昼の喧嘩に巻き込まれ斬られてしまったのです。

・・・・と、ここまでは物語の世界です。

何のことはない 次郎長本人の代わりに 大政がお仲さんを口説いている。 

次郎長の再婚を望んだのは 子分たちの総意だったからだ、

親分に女房がいないでは 自分たちまで女房をもらえないからである。

Photo_100

明治になって再婚した三代目お蝶さんに関しては 写真や文献など検証できる事実が沢山残されています。 

三代目は武家の娘で本名は「けん」、

献身的に清水一家を切り盛りしながら次郎長晩年の事業を共にする。  

次郎長没後は その存在を後世に残そうと次郎長の日常生活を記録した「侠客寡婦物語」の執筆にも携わった。

「頼みなき此世を後に旅衣 あの世のひとにあふぞ嬉しき・・・」

三代目お蝶さんの辞世の句、あの世の人とは亡き夫次郎長のことである。

才女といわれた三代目お蝶さんは かなりの文人です。

ということで、お蝶さんは初代も二代目も三代目も・・・

古き日本人女性の典型「一途に尽くすタイプ」だったようです。  

男にとっては理想の女房だね、てゆうか、女房が「エラかった」ということだ。

捕手のことを「女房役」とはよく言ったものだ、

顔はマスクで隠し、投手の力を引き出して、勝った試合のヒーローは投手の方だ。

歴史の表舞台に女性が出てくることはないが、英雄といわれる人物を支えてきたのは みな表に出てこない女房の功績だったのかもね・・・

2003_01060016

柳沢厚生労働大臣が「女性は産む機械」と口を滑らせてみんなに非難されている。本音を言ったばかりに平身低頭して謝罪する大臣もドジだが、それを国会でいつまでも追及し議論するのは もっとくだらねぇことだ。

(言っておくけど あの大臣は私の親戚ではない)

「女性を代表して大臣の辞任を要求します」・・・と、口角泡を飛ばして詰め寄る議員がいたが、いつからあんなブサイクなのが女性の代表になったのか?

女性の代表なら 美人で可愛いい人にしてもらいたいね。

もう一つ余談であるが 先月横浜の駅前で「子供の教育は政治の責任です!」

と演説している女性の県議会候補者がいた。

バカヤロ、子供の教育は親の責任に決まってるだろ、お前も母親ならさっさと家に帰って自分のガキの面倒みてやれ・・・と思う。

こんなことだから日本がクラゲになるのだ・・・!

男がクラゲだから 女が黙っていられない世の中になってしまったともいえる。

ナンチャッテ、選挙に行ったこともないのにそんなこと言う資格はないけどね、

今思い出したことだが、

中学のときに 担任の米山先生(女の先生)が結婚で退職することになり

最後のホームルームで教え子の私たちに言った、

「男は男らしく、女は女らしく・・・、そういう人になりましょう・・」

名言だ、今ならこの言葉の意味がわかるぜ・・・!

いい先生だったな・・・、と思います。

 

♪女は無口な人がいい あかりはぼんやり灯りゃいい・・・(舟唄)

♪ちょっとお人よしがいい 口説かれ上手なほうがいい・・・(北酒場)

これが日本の女性像だ、

これに異議があるのなら“お前は欧米か?・・・”

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

清水の次郎長(その一)

◆不良オヤジの歴史うんちく第二部・幕末編

“お控ぇなすって! お控ぇなすって!・・・・

(オヒカエではない、オヒケェ・・・と発音する)

早速のお控ぇ ありがとうさんにござんす、

軒下三寸(のきしたさんずん)借り受けましてのご仁義 失礼さんにござんすが

これよりあげます言葉のあとさき 間違えましたらごめんなすって・・・!

手前生国と発しますは 関東に ござんす、

関東 関東申しましても いささか広ぉござんす・・・(以下略)“

Ohikaenasutte_1 オヒケェナスッテ

時代劇でヤクザ者が仁義をきるときの おなじみのセリフ

これを 最初にやったのは だれでしょうか?・・・

諸説があって 正解は定かではないが、

この挨拶の元祖は「関東の綱五郎」である。

清水次郎長に惚れ、子分になりたいと決心した綱五郎が次郎長宅へ押しかけ 

玄関の土間に片ヒザついて述べたのがこの口上である。(そんなこと知っててもエラかないけどね)

村上元三の歴史小説「次郎長三国志」によると

そのとき次郎長は博打と喧嘩に明け暮れる若冠二十六歳、

子分は桶屋職人の吉五郎(鬼吉)一人だけだった。

そこへ関東の綱五郎(大瀬半五郎)と名乗る本格的な股旅者が加わり二番目の子分となる、

以後、清水二十八人衆と呼ばれるまでに子分がどんどん増え、清水の次郎長(本名・山本長五郎)は 歴史に残る大侠客に成長してゆくのである。

ついでに清水二十八人衆フルメンバーの紹介です

清水の大政、浜松の小政、桶屋の鬼吉、関東の綱五郎、法印の大五郎、追分の三五郎、大野の鶴吉、増川の仙右衛門、相撲の常、三保の松五郎(豚松)、森の石松、問屋場の大熊、伊達の五郎、関東の丑五郎、小松村の七五郎、田中の敬次郎、清水の岡吉、寺津の勘三郎、国定の金五郎、辻の勝五郎、四日市の敬太郎、吉良の勘蔵、伊勢の鳥羽熊、小川の勝五郎、興津の盛乃助、舞阪の富五郎、由比の松五郎、吉良の仁吉・・・である。

次郎長の晩年 一声かければ 実際の動員力は数千人規模に達したそうである。

1_5   

ちなみに清水一家の参謀で元武士だともいわれた大政は 愛知県常滑の回船問屋の生まれで原田熊蔵というが、次郎長の養子となったので本名は山本政五郎、養子だから親子の間柄、これが本当の親分・子分である。

ところで 偶然であるが小政も本名は山本政五郎という。

体が大きいから大政、小さいから小政・・・と呼ばれるようになった。

五郎と付くのが多いが 自分の名前を自分でつけるヤクザ者には「五」という数字が特別な意味を持つラッキーナンバーなのか 流行のようなものだったかはよく解らないが ヤクザ者のことを「ゴロツキ」というのは「五郎付」が語源なのだと思います。

次郎長三国志では 清水の長五郎(次郎長)、清水の政五郎(大政)、桶屋の吉五郎(鬼吉)、関東の綱五郎、法印の大五郎・・・五郎が五人集まったとき

「俺たちはヤクザな裏街道を歩いてきた逸れ者だが、五郎付きが五人揃ったのもご縁があったからだ、ここらで清水一家を名乗り、世間様にも大手を振って歩こうじゃねぇか・・・」と大政が次郎長一家の旗揚げを提案する、

この五人は清水一家の発起人のようなものである。

また、みんな○○の○五郎・・・とか、何処の誰というふうに名前の前(姓)に出身地を名乗ったりするのは、この時代の氏(苗字)を持たない農民とか 親を知らない孤児、家があるのに飛び出した風来坊とか・・・過去を拗ねてヤクザの道を選んだ男たちだが ふるさとへの「望郷」とか 元の職業に対する「誇り」だけは 大切にしたかったのであろう。

乱暴者の不良少年ばかりだが ひとりひとりがみな物語の主人公になるくらいユニークなキャラの持ち主で、それを束ねた次郎長のリーダーシップが後世に高く評価されているのは 喧嘩(仇討ちや縄張り争い)に勝ち残ったからではない。

運送業や土木業などの側ら 旗本山岡鉄舟(明治維新後の静岡県知事)と親交が厚く、民衆と行政のパイプ役となり 富士山麓の開拓や茶畑の整備、その他福祉活動など地域のボランティアに尽くした。

「弱いものへの優しさ」「恩を忘れず義理を重んじる」「正義のためには権力にも怯まず立ち向かう」・・・というような日本人好みの任侠を実践したからである。

(カテゴリー歴史・日本人の心でも同じようなことを書いたが)

“旅行けば 駿河の国に 茶の香り・・・”と唄われるほど

静岡県産の「お茶」を 特産物として全国に広めたのは

山岡鉄舟の政治力と 次郎長一家の人脈や労働力が大きく貢献したのである。

お控えなすって・・・で始まるヤクザの仁義、よくよく内容を吟味すれば 

言葉は乱暴だが こんなに礼儀正しく相手を尊重する優しい言葉の挨拶はない。

もしも私が教師だったら 小中学生にこの仁義の意味を教えてやりたいね、

でも 子供が家に帰って「お控ぇなすって・・・」をやったら クビになるだろうな。

| | コメント (2) | トラックバック (0)
|

より以前の記事一覧