カテゴリー「歴史・伝統・文化」の21件の記事

旗印

不良オヤジの歴史うんちく・・・その三

◆旗印

戦国大名の旗印(馬印)は 合戦のときに敵味方を識別するためと 

自軍の士気を高揚させる目的があります。

源氏の白い旗、平家の赤い旗が元祖かもしれないが、

色で区別するだけではつまらない、

時代の進歩とともに何かキャッチフレーズを掲げたほうが格好いい、

ということで戦国時代には文字や家紋をデザインするようになった、

それも合戦に使うスローガンだから「勇ましい」のがいい・・・、

武田信玄の「風林火山」、上杉謙信の「毘」は有名であるが、

織田信長は「永楽銭」、豊臣秀吉は「千成瓢箪」、

後に関が原で徳川家康と戦った石田三成は「大一大万大吉」、

真田幸村は「六文銭」・・・・など、

軍神信仰の勇ましいものとか 縁起を担いだ景気の良いものが多い、

戦いは“死”を意識するものだから 

誰もみな死ぬときくらいは派手に着飾って、美しく死にたいという願望があるのだろう、地味に寂しく死ぬのはいやなのだ。

結局人間は 誰でも死ぬのが怖いのだ。

家康の「厭離穢土 欣求浄土」は 

みんなで死ねば怖くない・・・みたいで、

捨て身で“ヤケクソ”なスローガンが軍勢の士気を上げるには有効だったのかもしれない。

               

小学校の運動会、昭和の時代は「紅組」と「白組」に分かれていた、

紅白というのはお祭りやお正月など お祝い事の色として日本古来の伝統だが、

運動会のように競技という勝負事になると、

紅対白は源平の対抗をイメージしてしまう、

なぜ紅白がおめでたいかといえば、源氏と平家が仲良くミックスして争わず平和な世の中になればめでたいことだ・・・

ということから始まったのではないか?

というのがオレの見解だけど 自信はない。

それとも紅白歌合戦のように 紅は女、白は男を表しているのか?

知ってる人いたら教えてもらいたいな。

オレたちの小学生の頃には源平盛衰記の話を先生に聞いたりして、

男の子は 勝った源氏の白組を希望する子が多かった・・・・、

歴史教育が行き届いていたということだ。

子供たちの声が学校の姿勢を次第に変えてゆき、

平成の現代では伝統的な“紅組・白組”をやる学校は少なくなった、

地域によって色々だけど、

「赤・白・黄色・青・オレンジ・紫・ピンク組?・・・」

ホステスの運動会じゃあるまいし、なんだか分からぬグループの対抗になった。

これならどこが優勝しても公平だと学校が子供たちに気を使うようになったのかな?

孫の運動会で 高学年の騎馬戦を見たとき、「風林火山」と「毘」の旗に分れていたのは 互角の力ということに拘るのなら なかなかのアイディアだと思った。

子供たちが 源氏と平家のこととか、「風林火山」と「毘」の意味とかをちゃんと教わって、理解してやっているのなら もっといい事だと思うけどね。

     

武士の先祖は 源氏と平家からスタートして 

清和天皇を祖とする「清和源氏」と

桓武天皇の「桓武平氏」の二派に区分されるそうである。

北条・足利・武田・徳川は源氏の子孫である。

源頼朝以後「征夷大将軍」を任命された足利尊氏・徳川家康は 

何れも源氏である。 

これは「征夷大将軍」という官位は 永久に源氏が継承するということを朝廷と約束し、慣例化してしまった頼朝の政治的手腕による功績である。

最初に戦国を統一したはずの織田信長が朝廷から拝命した官位は「右大臣」である、なぜならば 織田信長は平家の子孫だからである。

秀吉は百姓足軽の出身だから実力№1になっても 豊臣家に武士の血脈を入れようと自分の妹(朝日姫)を家康へ嫁がせたり(家康にすれば 四十を過ぎたオールドミスは欲しくないよと迷惑な話であったが、それを断れないほど太閤秀吉の力が強かったのだ)

信長の妹お市(浅井長政の妻)の娘 茶々(後の淀君)を側室にしたり、他にも色々画策したが、最終的な官位は「関白」である。

武士の肩書きの頂点「征夷大将軍」というのは 

外国と戦争するときに日本の大将になる人のことである、

秀吉が朝鮮出兵を強行して大陸制覇まで狙ったのは征夷大将軍の官位が欲しくて、 実際に自分が大将で外国と戦っていることを 何とか朝廷に理解させるためのパフォーマンスだったのではないかと思うのです。

なぜそんなに官位とか名誉に拘るのか、

権力者はみんな“見栄っ張り”なのかね、

リーダーの要素には プライドが必要なのも確かであるが、

人命を犠牲にしてまで見栄を張るのは愚かなことだ、

この時の秀吉の行動が 現在になっても韓国や中国からゴタゴタ言われてるし、そんな昔のことまでほじくって 文句いうほうもバカだけど、

木下藤吉郎の頃に一生懸命働いて日本一のサクセスストーリーの英雄となった秀吉も、若い頃の知恵やバイタリティは 日本人に勇気や希望を与えるお手本であったが、権力者となり富を手に入れた晩年は育ちの悪さというコンプレックスを払拭できずに 己の尽きることのない煩悩を露骨に出してしまった。

金銭的に豊かになったのに なんで心まで豊かになれないのかね、

現代でも 似たような人 いるけどね。

    身近にあった野球の旗印

10月26日

今年のプロ野球日本シリーズは 北海道日本ハムが勝った。

巨人から出た岡島が今年は日本ハムでいい働きをした、

あんなに個性があって打ちにくそうな若い投手を巨人はなぜ出してしまうのかと、

「巨人の星」の記事で、オラが言ったとおりになったべ・・・

パリーグの二冠王小笠原がFA宣言して 巨人が獲得に乗り出した、

今年もまた巨人の得意なストーブリーグが始まった。

巨人はまだわかってない、だからダメなのだとあれほど云ったのに

ホンマに懲りないシロウトだね。

なぜ二冠のタイトルを獲った人、ピークの人ばかり欲しがるのかね、

これから「タイトルを獲れそうな素材」を探せばいいのにね。

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ジャイアンツのタオルは新聞屋が持ってきた

タイガースのステッカー、Joshin電気でもらった

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今年もビリだったベイスターズの旗、来年は三位目指してガンバルゾ

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三方ヶ原

不良オヤジの歴史うんちく・・・その二

◆三方ヶ原の戦い

元亀三年(1572)武田信玄52歳、上洛を果たすため三万の大軍を率いて甲府を出発し遠江国を悠々と西進してゆきました。 

徳川家康は当時31歳、自分の浜松城を攻めてくるかと思ったら 

信玄軍はシカトしてゆく・・・、問題にされてないのである。

若い家康はアタマにきた、

俺の領地を挨拶なしで通るのは枕元を土足で歩いてゆくようなものだ、

なめんじゃねえぞ・・・と云ったかどうかは知らないが、

同盟関係で仲良しの織田信長から二千の兵を借りている手前もあるし、家来たちや近隣の武将たちにも いいところを見せたいという思惑もあるし、 信玄軍が通り過ぎるのを手をこまねいて見ているのではプライドが許さない。

ということで、浜松の近く三方ヶ原付近で信玄軍を待ち伏せ合戦を挑んだ。

無視して行軍したのは家康がアタマにくることを計算にいれて 家康の軍勢を外へ誘い出し一気に片付けようとする信玄の策だった、

城を攻めると時間もかかるし面倒なのである。

信長の援軍を合わせても一万にも足りない家康の軍勢は 当時最強といわれた信玄軍の敵ではなかった。

家康軍はコテンパンに負けて総崩れになった、

家来たちを大量に失い、信玄軍の騎馬隊に追われ、必死の思いで浜松城へ逃げ戻った。

逃げる途中でも家康の身代わりになった忠実な家臣が何人も討ち死にした。

城へ戻った家康の馬の鞍に“ウンコ”がついている、

恐怖のあまり馬上でウンコをもらしてしまったのである。

これを見た側近の本多忠勝らが

「殿は恐ろしくて糞(クソ)をもらしたのか?」というと、

家康は「バカ者、これは味噌じゃ、クソとミソの区別もつかんのか・・・」

「クソも味噌も一緒でござるな・・・」

「此度(こたび)の戦(いくさ)はクソミソのボロ負けじゃ・・・!」

家康と一緒に生き残った家来たちは大爆笑した。

自分の恥ずかしい姿を笑ってごまかす家康の“親近感”が

「この情けないわが殿をほってはおけぬ」という三河家臣団の結束力となり、後に家康を戦国レースの最終的勝利者へ導く原動力になったのではないかと考えられるのです。

    

三方ヶ原の合戦は徳川家康にとって人生最大の敗北だった。

家康は城へ戻ったあと 自らの情けない姿を肖像画にして、

このときの負けを胆に銘じ、慢心への自戒とするために 生涯その絵を座右から離さなかったそうです。

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徳川家康がションボリルドルフになった絵

        

笑ってごまかしてはみたものの、自分を守るために命を捨ててくれた家来たちへ 詫びの心、感謝の心、祈る心、そして自戒の心を持ったのです。

「皆と一緒に死にたいが、俺は戦(いくさ)のない平和な国を造る頭領にならなければいけない、その俺のために死んでくれる家来たちのためにも必ず目的を達成して 俺もあとから皆のところへ行くから、すまないが待っていてくれ・・・」

家康は心に誓ったのです。

「厭離穢土 欣求浄土」おんりえど ごんぐじょうど・・・・

以来 この文字が合戦のときの家康の旗印になった。

仏教用語で 娑婆(この世)は穢(けが)れたところ、

阿弥陀仏の作った清らかな極楽世界浄土への往生を切望する・・・、

という意味である。

「クソミソ」という日本語は「最悪でどうしようもないこと」の意味で使われるが、この三方ヶ原の話が語源である。

これがほんとの 不良オヤジの“うんちく”だ。

                   

家康が なぜ咄嗟にこれは味噌じゃと云ったかというと、

戦国武者が戦に出るときは 乾飯(ほしいい・・・乾燥させためし)、梅干、鰹節、味噌など、それぞれが工夫して保存食を携行していた、

家康の場合は“ほしいい”と三河名産の“味噌”を腰の袋にいつも持ち歩いていました。

家康にとってラッキーだったのは、この直後に信玄が病に倒れたため武田軍は浜松城を攻めることなく甲府へ引き返してしまったことです。

家康は 鞍に「ウン」が付いていたと共に、“運”にも恵まれていたのです。

“運が味方する”という言葉があるが、

スポーツ競技や 仕事上の自由競争でも、人間のあらゆる人生ゲームの中で

勝利を左右するのは 実力以外に“運”や“タイミング”というような「偶然性」が大きなウェイトを占めていることを肯定せざるを得ないのです。

もしも信玄が死んでいなかったら、そのまま浜松城を攻撃していたら、日本の歴史教科書は間違いなく変わっていた。

関が原のときも同じことが言える、

小早川秀秋の軍勢が 寝返っていなかったら・・・、

それだけが原因ではないとしても、勝敗はどうなっていたか判らない。

もしかして徳川家康という人は 日本の歴史上最もツイていた人だったのかもしれない。

      

信長・秀吉・家康・・・、戦国時代のヒーローとして 

この三人は何かにつけて比較されるが、

だれが一番偉かったかといえば、やっぱり家康になるのだろうね、

三百年も政権を維持できたのは史上最長だし 半端なことではない、

才能やリーダーシップだけで比べられる問題ではないからです。

信長「鳴かぬなら 殺してしまえ ほととぎす・・・」

秀吉「鳴かぬなら 鳴かしてみせよう ほととぎす・・・」

家康「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす・・・」

後世の人が この三人の性格を比較して詠った句(川柳?)です。

オレの考察では、

信長は独創性に優れたアイディアマンで、古い考え方にとらわれず行動する改革の人だ、

武士でない足軽に 合戦のときの恐怖心をなくすため三間槍(長さが三間5.4メートル)を持たせることを考案した、

たしかにシロウトが喧嘩するときには 短い棒よりも長いほうが有利だ。

鉄砲を実用化して 長篠の戦いではその足軽たちの持つ鉄砲で武田騎馬軍団を破り、武器の工夫で 弱い者(足軽)でも戦いのプロ(武士)に勝てることを証明したのだ、

でも、才能あるが故に人の意見を聴くことはなかった、

基本的に 仕事のできない奴、バカな奴、言うことを聞かない奴は嫌いだった、排除するのに躊躇はなかった、

比較の対象にはならないが、小泉さんが信長に憧れたのは似ているところがあると自覚していたからだろうね・・・、

秀吉はチャンスを活かす天才だ、

知略に優れ 勝負どころを的確に掴み 即行動に移して成功した。

権力者になってからは 小田原城攻めに象徴されるように 力の違いを見せ付けて圧倒する「大寄せ」にこだわった、でもこれは秀吉本来のスタイルではない、若い頃に苦労ばかりしたから楽して勝てる「大寄せ」が彼の理想だったのだ。

家康はどうか・・・、特筆すべきことは何もない、

信長・秀吉、この二人の才能あふれる革命児に比べたら、

能力的には一歩も二歩も譲っていた、

この二人より優れていたところは、

「優しさと平和な国を造ろうとする志」くらいなものだった。

山岡荘八の長編歴史小説「徳川家康」によると、

家康の特徴は 家来に対して気を遣い、論功行賞には特に頭を悩ませ、何かにつけて家臣と相談してから最終的決断をしている。

かといって 家臣に特別優秀な人材がいたわけでもない、みんなで知恵を出し合う合議制というか 三河家臣団は忠誠心と結束力だけは抜群であった。

オレは三十代の頃、通勤電車の中で「徳川家康」全26巻を半年かかって読んだ。

家康の生涯とこの時代の流れが興味深く、面白かった。

家康の「優しさ」をテーマにして、戦国時代を駆け抜けた信長・秀吉・その他武将たちの人間性を追及しているように思えた。

そして、この26冊の本の中に頻繁に出てくる「逡巡」という漢字の読み方と意味を始めて知った・・・、この本を読むまで「しゅんじゅん」という言葉を知らなかったのです。

辞書を開かなくても 物語の内容から「しゅんじゅん」というのはためらうこと、躊躇する意味であることが解った。

つまり、家康も家臣も 他の登場人物も、言葉や行動を起こす前に 自分と相手の関係や状況を気遣い「逡巡」することが多いのである。

三人のタイプをオレ流に結論づけると

信長と秀吉は大穴単勝馬券一本を財布の中身全部つぎ込む勝負師タイプ、

家康は本命の複勝馬券を 少しだけ買うタイプである。

オレの場合は信長・秀吉タイプの勝負をしたいけれど、 

大穴の連勝単式を少ししか買えないタイプである。

それも 資金が少ないので かなり逡巡しながら・・・・

やっぱりオレは中途半端で偉い人にはなれないタイプだということか。

(自分のことはどうでもよかったのだ、また 脱線しそうになった・・・)

司馬遼太郎「覇王の家」によれば

この小集団(三河家臣団)の結束が 強固な徳川政権を樹立させた、

その権力の基本的性格は家康自身の個人的性格から出ていて、徳川家という極端に自己保存の神経に過敏な性格となり、その家が運のめぐりで天下をとり 三百年間も日本国を支配したため、日本人そのものの後天的性格にさまざまな影響をのこすはめになった、

悪く言えば 日本の民族性を 奥歯に物が挟まったような

閉鎖的でケチ臭いものに歪めてしまった・・・

要するに 信長・秀吉タイプが天下を取っていたら、

現代日本人の性格は もっと陽気で開放的になっていたのではないだろうか?

と分析しています。

さすがはオラの敬愛する遼太郎先生だと思った、

今更 暴れん坊将軍がマツケンサンバを踊っても 手遅れだ・・・、

と嘆いているのです。

     ・・・・・・・ つづく

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川中島の戦い

不良オヤジの歴史うんちく(その一)

◆川中島

千曲川と犀川、二つの大きな川が合流し 流れの衝突する地点に土砂が堆積してできた三角形の中州が川中島である。

世界地図をみると、アマゾン川の河口に流れが分流して地球最大の三角州マラジョ島というのがある。 メコン川が海に流れ出る河口付近にできた広大な中洲をメコンデルタ地帯という、デルタとは三角のことじゃ、(小学校で教わったべ)

アマゾンやメコンの規模にはちょっと負けるが、流れの力で島ができるという理屈からいえば同じだ。

この川中島を舞台にして 甲斐・武田信玄と越後・上杉謙信が信濃の領土問題を巡って戦ったのが「川中島の戦い」である。

このブログの最初のころに「戦いの歴史」の記事で 歴史は数々の“戦い”によって動いてきた・・・、というようなことを書いたが、どの戦いも必ず勝者と敗者が存在するが「川中島」だけは 戦国合戦史上最大の激戦にも関わらず 最後まで勝負がつかない引き分けに終わったことが、日本史を代表する名勝負ともいわれる所以であろう。

歴史事実というのは 残された文献などをたよりに検証し 解明されてゆくものだが、時代の流れとともに 認証が代ったり 諸説があるのは仕方がない、

なにしろ実際に現場を目撃した人はいないのだから、あくまでも現代人の推測の域はでられないからである。

従って オラはここで独自の解釈で薀蓄(うんちく)を傾けることになるけど、

「不良オヤジ」のうんちくだから かなりいい加減なところもあるが、若い人たちが知っておいて損にはならないはずだ。

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 川中島の戦い(天と地と)

川中島の合戦は 天文22年1553~永禄7年1564まで、 

十二年で計五回戦われたが、損害の大小を勝敗の基準にすれば 一勝一敗三引き分け、結局引き分けであるが、結果的には後に信濃を支配したのは甲斐の国だから信玄の勝ちと判定する人もいるが、この戦いによって国力を消耗させたことが 後に武田家滅亡の原因にもなったし、謙信のほうは信濃を支配出来なくても何の不利益もなく、信濃の大名たちに助けを求められ、信玄のような悪いやつを倒してやるという いわば義侠心とボランティア精神を燃やした意地の戦いであった。 

謙信も甲斐の国まで攻められなかったし、

信玄も越後を攻撃することはできなかった。

越後は冬になると雪に埋まる、戦いはいつも雪のない夏場の季節に行われ 冬が近づくと謙信はさっさと越後へ引き上げてしまう、

信玄も雪国越後まで兵を進めるのは得策ではないし・・・、

そういう地理的気候的な条件も長期戦にさせた原因なのである。

更に 信玄には“上洛”という大目標がある。

甲州から京へ上るには東海道コースを通る、東海コースには徳川家康や織田信長等の列強がいる、それを排除することが先決で、信濃・越後を経由する北陸コースを予定するなら何がなんでも謙信と決着をつける必要があるのだが、

わざわざ遠回りはしたくないのである。 

黒沢明の映画「影武者」でもやっていたが、

信玄は上洛途中に病死して目的を果たせずに終わる、

その後、息子勝頼が 織田・徳川の連合軍に長篠の戦いで破れ、

ついに甲斐武田家は滅亡してゆくことになる。

信玄は野心家であり政治的才能もあった、

謙信のほうは実際に北陸コースをとって京へ上り 力の衰えた足利将軍を擁護し、幕府の高官上杉憲政から「上杉」姓を引き継いで 室町幕府最後の関東管領になるが、天下を取ろうという野心はまるでない、

自分が軍神毘沙門天の転生(生まれ変わり)だと信じて、

妻もとらず 純粋な正義感のみで一生を貫いた。

謙信のシンボルマーク(旗印)は毘沙門天の“毘”である。

上杉の姓を引き継いだから上杉謙信で、本名は越後の守護代「長尾景虎」である。

信玄も出家前は「武田晴信」、

シンゲンvsケンシン・・・・名前まで逆で相容れぬこの二人は

晴信と景虎のころから紛争を繰り返していたのである。

どちらかいうと 文献も少なく歴史の表舞台にあまり出てこない越後の謙信よりも

現代人には“風林火山”の旗印で有名な信玄の方がメジャーであるが、

謙信を主人公にした歴史小説、海音寺潮五郎の「天と地と」を読んでから 自分的には謙信のほうが好きになってしまった。

川中島の戦いの特徴は

①十年以上も戦って引き分けたこと

②第四ラウンドは死者一万人以上の激戦になったこと、

③大将同志が一騎打ちしたこと、

それほど入り乱れたスッチャカメッチャカな戦いだったのである。

 

天下分け目といわれる関が原でも 動員数には諸説があるが、東軍七万五千、西軍八万二千、双方で十五万を超える規模だが、どちらも多国籍軍同士の戦いだから 

互いにけん制したり、小競り合いや数千人規模の戦いはあったが、

両軍が同時に全面的な規模で激突したわけではない。

推測だが、戦っている人よりも それを見ている大勢の人を「野次馬」というが、これは関が原で他人の戦いを馬上で見ている武将たちのことをいうのだ。

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川中島最大の激戦は 永禄四年第四回目の戦い、武田二万、上杉一万三千、

9月9日から10日にかけて、双方で一万人以上の死傷者を出した。

前半は先制攻撃をかけた上杉軍が優勢、後半は援軍が参戦した武田軍が優勢だった。

この戦で信玄は自分のブレーン(頭脳)として、最も信頼していた軍師山本勘助まで失うことになる、

勘助は己の提案した戦法が謙信に見破られ 武田軍が苦境に陥った責任をとるために敵中へ突入し壮絶に討ち死にした。      

 

萌黄(もえぎ)の胴肩衣に 頭を白い布で包んだ騎馬武者がひとり、信玄本陣前方に忽然と現れ、 太刀を振りかざし疾風の如く突進してくる・・・・、

なんと その騎馬武者は敵の大将 謙信ではないか!

しかも 唯一騎で・・・!

信玄からすれば「ウッソー、ほんまでっか!???」という状況であったろう。

大将同士が遭遇して一騎打ちになったのは戦国合戦史上 川中島をおいて他にない。

大混乱の中で たまたま旗本が無人になった信玄の本陣、

その一瞬をついて謙信が襲いかかったのである。

謙信は床几に腰かけた信玄めがけて三度太刀を振り下ろす、

信玄は刀を抜く暇もなく軍配で受け止める、

慌てて本陣に戻った信玄の家来が謙信の馬を槍で突いた、

驚いた馬が暴走して駆け戻ってしまったため 間一髪のところで謙信は信玄を打ちとることはできなかったが、

「えかった、これでえかったのじゃ、一太刀浴びせた、オラの勝ちだ・・・」

馬上で達成感に満ちた謙信が嬉しそうにつぶやくところで「天と地と」の物語は終わる。  

三十年も昔に読んだ小説なので 記憶が正確でないが、

例えば「だすけさ・・(ですからの意味)」、「そらて・・(なのだ)」など、

謙信の家来たちの会話は 全て越後の言葉(方言)である。

海音寺さんは そこまでよく調べたものだと感心するのである。

Uesugi_kenshin (上杉謙信像)

鞭静粛々夜過河  暁見千兵擁大牙 

遺恨十年磨一剣  流星光底逸長蛇

べんせいしゅくしゅく よるかわをわたる

あかつきにみるせんぺいの たいがをようするを

いこんじゅうねん いっけんをみがき 

りゅうせいこうてい ちょうだをいっす

江戸時代に 頼山陽の詠んだ「鞭静粛々」の詩は

川中島の第四ラウンド、武田の戦法の裏をかき、松明を焚いて妻女山の本陣に上杉軍がいるように見せかけ、それを追い落としにかかる武田の別動隊一万二千を妻女山へ誘い込み、夜陰にまぎれて河を渡り、夜明けと同時に武田軍八千の本隊側面へ先制攻撃をしに行く謙信の高揚する心を描いた詩である。 

漢詩はやっぱり難しいけどね・・・、

鞭静粛々とは「馬を騒がせないように、全軍が静かに進むこと」である。 遺恨十年磨一剣、「憎いあの野郎を倒すために十年も剣を磨いてきた」ということであろう。

流星光底逸長蛇・・・?何だか分からないけどここが一番カッコいい。

男が喧嘩しにいく時は こういう気概でいきたいね。

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テレビの大河ドラマ「風林火山」で中井貴一演ずる武田晴信が

千曲川を挟んで 初めて長尾景虎の一隊と遭遇する場面がある。

対岸で音もなく 整然とこちらを見つめる長尾景虎の軍勢、

「静かだ・・・・!」

「静かな軍勢は強い・・・我らは心して掛からねばならぬ・・・」

晴信の台詞である。

敵は只者ではない、今まで戦ってきた中で 一番強いかもしれない、

音を立てない静かな軍勢とは、訓練され、規律正しく統制の行き届いた兵だ、侮ってはならない・・・、

後に信玄となる武田晴信が肌で感じたのである。

歴史に「if・・もしも」を云ってもしかたがないが、

戦国制覇の本命といえる信玄が謙信と争わず 同盟でもしていれば、

歴史の教科書は違う内容になっていただろう。

力関係で予想屋をするなら 信玄が◎、信長が○で、謙信は▲、

家康は△くらいか?・・・秀吉はその頃信長の家来だから対象外だね。

(つづく・・・次は徳川家康の「くそ味噌」のはなし・・その他)

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日本人が忘れているもの

社会の平和や安定に比例するように 他人の迷惑を考えない、人の心を傷つけても 罪悪感を感じない・・・、

親が子を殺したり、子が親を殺したり、先生が生徒を殺したり、幼児を虐待したり、年寄りを騙す詐欺、インターネットを利用した詐欺、人の弱みに付け込む詐欺や横領・・・、

利益のためには設計の偽装をしてでもビルを建てたり、企業の買収とか・・・

日本人の正義、倫理、美徳は どこへいってしまったのか・・・

最近はそんな悲しいニュースばかりだ。

このままでは 日本がだめになる。

二十年、三十年後には 世界中から馬鹿にされ、笑われる、だめな国になる。

日本人は 大事なことを忘れているのだ。

“仁・義・忠・孝・悌・礼・智・信”・・・

これらのモラルを、 日本人ならだれでもこの八個の霊玉を 心のどこかに持っていることを 忘れているのだ。

次郎長や吉良常や・・・侠客たちのもつ 義理人情、勇気、友情、信念、優しさ・・・。

日本には こんな素晴らしい伝統や文化や美徳があることを 未来を担う子供や若者たちに教育し、伝えていかなければだめなのだ。

教育を根本から見直さなければ・・・、

郵政民営化、構造改革、年金や税制の改革・・・

政治家も国民も、日本の大人たちに改革という精神があるのなら、

教育の改革こそが基本であるということを認識するべきだ。

オレ一人が こんなことを唱えても 何の力にもならないけど、二十年後には オレはもうこの世にはいないだろうけど、

でもやはり 祖国日本を愛している。

季節があるのは日本だけだ、春夏秋冬の四季が均等に廻ってくるのは 世界中で日本だけなのだ。

こんな素晴らしい国、たまに地震があるけれど、豊かで美しい国、優しさと温かさに溢れた日本を、日本人はもっともっと好きになって、愛さなければ・・・

と思うのであります。2006_040830028_1

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人生劇場

清水の次郎長とか国定忠治とか・・・有名なヤクザの親分たちが現代でもみんなから慕われ、人気があるのは、彼らに優しさがあったからである。

忠治は高い年貢(税金)で苦しむ百姓たちのために悪い代官と戦った。

次郎長は明治維新の戊辰戦争のときに、官軍に攻撃されて幕府軍の軍艦が沈没し、兵士の死体が 清水の海に累々と浮かんでいた、

弔ってはならぬという官軍の命令を無視して、子分たちと共に死体を引き上げ埋葬した。

『 官軍だか賊軍だか知らねえが、死んでしまえば仏様だ、弔ってやるのが人の道だろう、てめえら文句があるのかい・・・』と啖呵をきった。

官軍の兵士たちは 次郎長の迫力に言葉もなかった。

要するに 忠治も次郎長も 人間的な優しさに溢れていたのである。

だから子分たちも 親分のためなら命を投げ出すほどに 敬愛していた。

吉良の仁吉というヤクザものは 元は次郎長の子分ではなかったが、自分と女房が一番苦しいときに次郎長に助けてもらった、その後 次郎長の人格に感動して、次郎長一家と対立する黒駒の勝蔵一家と 荒神山での最後の戦いに、数で劣勢な次郎長一家に 死ぬ覚悟で助太刀をする、愛する女房の反対を押し切り 女との恋よりも男の友情を選んだ、そして奮闘し、死んだのである。

明治・大正・昭和の時代には この仁吉の生き方、死に方がヤクザのお手本であった。

尾崎士郎の『人生劇場』には 飛車角・吉良常という二人の侠客が登場する。

オレは この長編小説を高校生の頃に読んで 大感動した。

主人公 青成瓢吉の青春と それを取り巻く人々の生き様を描いた 激動の時代の大恋愛小説だと思った。

男の生き方、女の生き方・・・人間はどうあるべきか、愛とは、正義とは、真実とは・・・、

日本人に生まれてよかった、日本人でなければ理解できない、いつまでも心に余韻が響くような 里見八犬伝にも匹敵する後世の人に是非読んでもらいたい 一大傑作だと思う。

古賀政男さんが国民栄誉賞に選ばれたのも、この『人生劇場』の作曲が人々に愛唱されたことが 要因であるといっても過言ではない。

“やるとおもえばどこまでやるさ・・・義理が廃ればこの世は闇だ・・・

あんな女に未練はないが・・俺も行きたや仁吉のように・・・”

この詩は 飛車角と吉良常の詩なのである。

後に 人生劇場は映画で何度も上映された、

生き方、考え方、倫理とか正義感のようなものが日本人にぴったりだからだ。

飛車角や吉良常のような、あんなに素晴らしい男はいない、ヤクザとしても、男としても、理想の日本人として共感を得るのだ。

ヤクザ映画で 鶴田浩二や高倉健にやっつけられるのは 人を裏切り、弱いものをいじめ、私腹を肥やす悪い人間ばかりだ。

義理と人情に欠ける人間だ。

自分の生命や将来を犠牲にしてでも それを倒すのがヤクザの正義であり美学だった。

ヤクザは 社会の必要悪だった。

しかし、悲しいかな 平成の現代になって、本当のヤクザは もういなくなった。

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侠客

ヤクザの元祖は 幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべい)という江戸時代の人で、

町奴(まちやっこ)といって 仕事の斡旋業とか 祭のときの元締めのようなことをしていました。 

弱きを助け 強きをくじく・・・という男達(おとこだて)と呼ばれて、江戸市民の人気者でしたが、武士で権力を後ろ盾に 乱暴ばかりする旗本(はたもと=徳川将軍の家来)水野十郎左衛門のグループと対立、町奴と旗本奴の二つのグループの争いが絶えず 町の人たちに迷惑ばかりかけているので、和解をしようとして水野邸に交渉に行ったが 風呂場で水野に殺されてしまった。

長兵衛は 自分が行けば殺されることを覚悟していた。

身分の高い旗本に対して、対等の話をすることは 水野のプライドに関わる、

自分の命を代償にすれば 水野たちが無法な行為をしないように説得できる、

武士の威厳を保つこともできる。

そして、自分の子分や町の人たちも 怪我人や死人がでないで済む・・・

長兵衛は 自分を“頭・親分”などと呼んで慕ってくれた子分たちや町の人たちに感謝して、彼等の自分に対する優しさに報いるために 自分を犠牲にしたのです。

更に、敵対する水野という侍のプライドまで 守ってやろうとした。

味方にも敵にも 優しさを与えたのです。

後に 彼は“侠客”とよばれるようになった。

(きょう)とは おとこという意味である。

水野邸を訪れた 「男の客」である。

勇気と優しさをもった男が 真の男なのである。

仁侠の世界というのは 優しい男の世界という、日本の歴史と文化が生んだ言葉です。

分かりやすく云うと 最近のテレビドラマで「ごくせん」にでてきたヤンクミのおじいちゃんのところの大江戸一家がそれである。

親分のおじいちゃんを筆頭に、上下関係がはっきりして真の男にあこがれている人たちの世界なのです。

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仁義

2006_01040010 仁義(じんぎ)・・という言葉は 最近ではあまり聞かれることのない、若い世代には馴染みの薄い、古い時代の言葉になってきました。

現代日本人が 仁義という言葉に出会うのは、ヤクザの映画や物語から これを知る人がほとんどです。

“仁義なき戦い”とか、“仁義をきる”とか、・・・・

古い時代のヤクザものが 仁義という この言葉を好んで使ったのです。 

ヤクザとは、漢字で書くと八九三、8+9+3=0・・・という意味です。

花札賭博では 三枚まで札(フダ)を引ける・・・

三枚を足し算して末尾の大きい数字で勝負します。

一番強いのが九でカブといいます。 弱いのがゼロで ブタとかブッツリとか云います。

つまりヤクザとは 八+九で七になった(17の1の位は7)、そこでやめてもいいのだけれども、あと一枚引いて2が出れば 最強の9になる、大儲けを狙って もう一枚の勝負に出る・・・、ところが 結果は3が出て、結局 最後はスッカラカンのゼロになるのです。

ヤクザの人生は 最後はゼロになるということを象徴しているのです。

ヤクザは 働かない、博打をしたり喧嘩をしたり、時には悪いこともする・・

社会の秩序を守らない無法者です、  善良な人たちの 嫌われ者なのです。

でも 彼等にとって、唯一 自分の生き方を正当化できる言葉が 仁義なのです。 

仁義という言葉に感動して、任侠の世界(男の世界)を生きようとするのが 彼等の心の支えだったのです。

仁義は、本当はヤクザの世界の言葉ではない、人間全てに通用する 人が最も大切にしなければいけない素晴らしい意味のある言葉なのです。

オレは この仁義という言葉が 日本語の中で一番好きだ。

世界に誇れる 日本人独特の立派な文化なのです。

一言でいえば 仁義とは 『優しさに対して 優しさでお返しする』 という意味です。

言い換えれば 恩返しをする という意味と同じです。

“恩”とは 人からうけた優しさ のことです。

優しくしてもらったから それに報いる心を持つことが 人間性(ヒューマニズム)の原点なのです。

優しさは 人の豊かさであり、強さになるのです。

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ラストサムライ

インターネットで “幕末・維新で一番好きな人物”という人気投票をやっていた。

一位は坂本竜馬(15.44%)、同率一位に土方歳三(15.44%)、三位高杉晋作(10.07%)

四位近藤勇(8.05%)、五位松平容保(6.71%)・・・、以下六位西郷隆盛、七位徳川慶喜、

八位勝海舟・・・とつづく。

新撰組のメンバーは 土方・近藤のほかに 永倉新八、山崎丞、沖田総司、斉藤一、藤堂平助、山南敬助、井上源三郎、原田左乃助、松原忠司、伊東甲子太郎、・・・など 殆どが五十位以内にランクインしている。

テレビや映画の影響があるのかもしれないが、現代人は新撰組が好きだ。

新撰組は幕末に 特別に偉いことをした人たちではない、坂本竜馬のように薩摩と長州を同盟させて維新に貢献したとか、西郷隆盛と勝海舟のように 江戸で戦争が起こらないように話し合いをしたとか、世のため人のために尽力した偉い人ではない。

新撰組は 浪人(失業者)の寄せ集めで、京都の治安を守るということで、京都守護職会津藩松平容保(まつだいらかたもり)の預かりとなり、やっとスポンサーができて、不逞浪士を取り締まる名目で殺人を繰り返した、どちらかといえば暴力団と同じである。
剣術が強いというだけで、ほかに何の取り柄もない侍たちである。

それが現代の人に愛されるのは 彼らが 負けると知りながら、幕府という 滅び行くものに義理を尽くし、官軍となった薩摩長州軍に対する反骨と意地だけで 銃や大砲という近代兵器に対して、刀で立ち向かった最後の侍だったからである。

時代の波に乗り遅れ、逆らい、武士らしい死に場所を求める、そのためだけに戦った最後の武士、つまりラストサムライなのである。



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日本のロマン

赤穂浪士は 切腹という結末になったから日本人の誰からも愛される存在になったのだ。

悲劇の英雄だから 人気者になるのである。

みんな赦免されて、夫々が 厚遇でどこかの藩に再就職して、幸せに暮らしたのでは、誰も相手しないのである。

現代人は、特に外国人には サムライの切腹について 理解できない。

言葉を交わさずにお互いの気持ちが分かる・・・・、

建前でものを云い、建前の中から本音を探ろうとする。

忠臣蔵には そういう場面が沢山ある。

日本人にしか理解できない 独特の文化だ。

日本の外交が下手だとされるのは そういう日本の伝統的な文化が悪影響を及ぼし、本音でしかものを言わぬ外国人には 理解ができないのだ。

赤穂浪士は“忠義”というテーマによって切腹した。

“仁・義・忠・孝・悌・礼・智・信”・・・

昔の日本人は この八つの文字のためなら死ぬことができた。

現代人は赤穂浪士のように“忠”によって死ぬ人はめったにいない、

でも、例えば、愛する人のためなら 死ぬ事ができるかもしれない。
この八つの文字が意味する美徳は 現代でも通用するのだ。

2006年の現在、イラクやイスラエルでは いまだに自爆テロが頻発している。
彼ら自爆するテロリストたちは 死が怖くないのだろうか、

一言で云えばイラク戦争はイスラムとキリストの戦い、パレスチナの紛争はキリストの聖地を巡る争い・・・、どちらも宗教を根源とする対立である。

神を信ずるが故に 死ねるのだろうか。
彼らが死を恐れないのは、標的に対する憎しみと、それが正義とする信念、夫々の信ずる神への忠誠心なのである。

人が自ら命を絶つには それを正当化させる大儀・美徳が必要なのだ。

浅野家の菩提寺、高輪の泉岳寺に赤穂浪士四十七人の墓がある。

浅野内匠頭長矩と妻揺泉院の大きな墓が並び、その脇に大石内蔵助良雄の墓、そしてそれを輪になって寄り添い、主君を守るように 堀部安部衛、不破数右衛門など四十六人の墓が建ち並び、三百年も経った今でも、人々はこの墓を訪れ、むせかえるほどの線香の煙が絶えることがない。

日本人はみんな この四十七士を愛しているのだ。

忠臣蔵は最も日本的な思想と文化の中で生まれた 日本のロマンだ。

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忠臣蔵(2)

本懐を遂げた赤穂浪士47人はみな 辛抱し、建前で行動した大人たちであった。

大石は仇討ちを決意し、江戸へ下る前に 最愛の妻理玖(りく)を離縁する、

これから自分は事件を起こし罪を犯す、その危害が家族に及ばないための配慮であった。

理玖もそのことを理解して 子供たちを連れて去っていく。

愛するものを守るため離婚して身軽になった大石は 嫡男主税と共に江戸へ出発するのである。

討ち入りの前日、大石は 別れを告げるため主君浅野内匠頭の正室阿久理の方(揺泉院)を訪ね 主君の仏壇に手を合わせる、揺泉院は大石がいよいよ仇討ちをしてくれるのかと期待していたが、大石はその気はないと答えるので 揺泉院は失望し、大石を罵る。

情報はどこから漏れるとも限らない、大願成就のためには どんなに罵られても本心を明かすわけにはいかないのである。

赤穂浪人赤垣源蔵は 討ち入り前夜兄の長屋を訪れるが不在のため兄の羽織に向かって一人で酒を酌み交わし、鼻水を垂らし、泣きながら 別れを告げる。

その姿を見ていた兄嫁は 職もなく大酒飲みでぐうたらで、どうしようもない厄介物の弟としか思わない。

大高源吾も失業中であったが、討ち入り前夜 俳句の師匠宝井其角に会い、

“年の瀬や水の流れと人の身は”と詠まれ、“あしたまたるる その宝船”と下の句を返す。

其角は 最初は源吾の再就職が決まったのかと解釈するが、後でいよいよ討ち入りするのかと気づく・・・。
赤穂浪士四十七人は討ち入り前、妻や子供や、父母や、友や、師や、恋人などにみな夫々のやりかたで 別れを告げるのである。

四十七人全員が 既に死を覚悟しているが、誰ひとり本当のことは言わない、最後まで辛抱し、建前を貫くのである。
そして、討ち入りを決行して目的を達成した赤穂浪士は 幕府の処分を待つのである。

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◆理想の指導者

忠義の士、武士の鏡・・・と、世論は赤穂浪士を絶対的に支持した。

幕府の上層部も 彼等を厚遇して助命嘆願する意見が多かった。

将軍綱吉も彼等を賞賛し、そして、苦慮した・・・、大石の狙いはここにあった。

しかし、彼等は徒党を組んで深夜幕府の高官の家に押し入り、何十人を殺戮した罪人に違いはない、これを赦免したのでは世の中の秩序は保たれぬ、死刑が適当であるが、文武忠孝に励んだ彼等には 士の礼を以て切腹に処すならば 彼等も本懐を遂げたことになる・・・、当時の学者荻生徂徠(おぎゅうそらい)等の進言により 四十七人の切腹が決定したのである。
元禄16年(1703)2月4日、四十七士は次々に切腹、伝説の中で永遠に生きる存在となった。

“あら楽や 思いははるる身は捨つる 浮世の月にかかる雲なし”・・・

目的を達し 喜びに溢れて死んで行く 大石内蔵助の辞世である。
大石は 世論の支持をバックに 幕府を困らせようと難題を突きつけて、赤穂義士の気骨と信念を顕示して、後に四十七人全員が死ぬことも想定内だったのである。

苦労して本懐を果たし、死なせてしまう部下たちに お詫びと感謝の気持ちを兼ねて、

自分も含め四十七人全員を 歴史に残る英雄にプロデュースしていたのである。

大石は主君に対する“忠”と、妻子や部下への優しさ“仁”と、強大な政権に対する反骨の精神“義”と 策略を巡らす“智”も、真実を貫こうとする“信”も・・・

八個の霊玉を全部持っているような 日本一の武士(もののふ)であると思う。

勇気と信念、礼節と感謝、優しさと人望、知略と合理性、冷静な決断力・・・

リーダーの資質を総て備えた 理想の指導者であろう。

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