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昭和の腕白武勇伝(2) 夏のちびっ子物語

近況報告、

激動の時が流れ 季節が巡り 大病に倒れてからもうすぐ一年半、 再び暑い夏が来た、ウソのような一年間だった。 笑って笑って、涙を笑ってごまかして、何とか今日も味わい深い一日を過ごそうと 歩いて食って呑んで・・・お蔭様でブログの更新もしてる、アホになっては困るから アタマも鍛えようと日々精進しています。 

大昔、三十年も前、肝臓病で死に損なったときには 食事の制限・酒の制限があった。

減量による改善を目標に栄養士の先生まで参加して 一日に食ったものを全部記録して報告する時期があった。 アルコールは勿論ダメ、・・・・こういう病気は一番辛い。 食っちゃいけねぇ、呑んじゃダメ・・・、死んだほうがましだよ・・・といいたくなる。

この度の大病は それがなかったのがせめてもの幸いだった。

一ヶ月の昏睡から目覚めて測った体重が57kg、・・・これなら競馬の騎手になれる???

自分的にはこの激ヤセがショックだった。  マイナス13kg、500kgの競走馬がパドックでマイナス100kgと表示されるようなものだ、誰も馬券買わないよ。 

それを口にしたら叱られる、ヨーシ食うぞ、食いまくって体重復活するぞ・・・と密かな決意に燃えていた。 点滴だけで眠り続けた一ヶ月、この断食はダイエット効果になった。

去年から何度か血液検査したが 肝機能の数値が正常になったのは何十年ぶりか・・である。

尿酸、GOT.GPT.γGTP、中性脂肪、コレステロール、全部合格! 一項目くらい問題点がないと正常ではないよ、無病息災では現代人は危険を伴う(素人考えだけど)

バカは風邪ひかないというが 年に一度や二度は風邪ひくバカが良い、私の友達は 男も女も基本的に皆バカである。 ドヂで貧乏で、どこか抜けたところがある。  優等生に友達は出来ない、バカ同士だから心が通い合う、友達とは一緒にいて気分がよくなる人である。 だから友達なのだ。

今度の病気は「食えるから」よかったよと、今になって「幸運」とは こういうことも含めてのことなのだ・・と思うのである。  それでは 理想的な大病とは? 一日に何カロリー以上摂取 しなければならない、一合以上の酒を呑まなければいけない・・・という逆説的な規制を要することになる。  低血糖値で何か食べないと死ぬという病気があるらしいが そんな贅沢な病気で苦しむ人がいたら いつでも替わってやりたいよ。 オレなら三人くらいまとめて替わってやるよ。 父母に祖父祖母に・・先人たちは皆 やせ細って逝った、死ぬときは皆痩せて小さくなってしまう、そういう姿を見て育ってきたから、哀しい時代だったから・・・(自己弁護になるが) 

 朝 渓流釣りで山女・岩魚・ニジマスと遊ぶ、午前中は古い野球仲間を集めて草野球、一汗かいてから昼食はバーベキュー、冷たいビールと肉をむしり喰らう、午後は競馬場で競馬三昧、大穴当てる。 夕方は箱根辺りの温泉で宴会、コンパニオンの姉ちゃん10人ほど呼んで カラオケ、夜遅く風呂に入って そのあとは寝室でマッサージ、またはソープランド、ネイルサロン・・・etc.穏やかな眠りに就くまで ゆったりと過ごす・・・。  理想の一日である。 こんな一日が過ごせたら翌朝死んでもいい・・。

6月上旬 親友と二人で生ビールとヤキトリ食いながら談笑していた。 趣味が同じ、やってきたことも似たもの同志、理解し合える良き友である。 不良好き勝手なことを語り、涙うるませバカ言って、「理想の一日」は互いの夢を語り合った結論である。  日本に生まれて良かったね、平和で幸せな時代だね。

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大病から一年、変わったことは基本的になにもない、一年歳を重ねただけだ。  

あんな人になりたい・・・と 思っていたあんな人になってしまったような気がする。 自分は「あんな人」になれてラッキーだが あんな人とは言いたいことを言える人、その言いたいことが時として人の心を傷つける、気遣いできないのはバカな証拠である。 

例えばおなら、屁をこきたくなる、孫娘がいれば オーイ・ちょっと来て・・・、呼んでからカウントダウン 3-2-1-0 BOW-!?? と、豪快にぶっ放す、チビのなーちゃんは爆風で吹っ飛ぶ・・・、若い頃はおならなんて絶対密かに人に悟られないようにやったものだった。 満員電車とかエレベーターの中とか・・・公共の場でやるのは卑怯だ、犯罪に等しい、そこまでの度胸はないが 今では宣言してから正々堂々と一発かませるようになってしまった。 単に恥知らずのバカになったのかもしれないが こういうことは憧れでもあった。  思ったこと感じたことは 言わなければ伝わらない、相手を傷つけないように・・・なんて気ぃ遣ってたらダメ、ブスに向かって オマエはブス・・と言ってしまう、これはいけない、最悪だ、でも「いつもキレイですねー」見え透いたウソは もっといけない。

私は子供が好き。 長いこと少年野球の世話をしていた関係もあるが 子供と接する時間が多かった。 子供の会話、遊び、生態が時代を反映しているような気がする、子供のユニークな言動に遭遇するとき 平和や幸せを感じて 自分も心地よくなるのである。 

① 我が家の近所に小児科がある。 ある日 診察終った親子が出てきた。 お父さんと一年生くらいのヤンチャそうな男の子、父「あー、がっかりだよ、オマエ少しは寝込んでくれたら助かるのに・・・疲れるよ」  この子の普段からの活躍が想像できる。 お父さん疲れてるのだ、風邪でもひいて寝込んでくれたら 親孝行になるのだ。

     道端で 幼稚園の子が先生に説明している「あのね・ボクのお兄ちゃんの学校のお友達のお兄ちゃんがね・・・来てるから・・・」先生「お兄ちゃんのお友達なの・・・?」

「違うの、あのね、お兄ちゃんの学校のお友達なの・・・お兄ちゃんの学校のね、お友達のお兄ちゃん・・・◎▲★???」複雑な会話である。

七月七日、七夕祭り、お散歩コースの児童公園に七夕祭りの笹の枝に 短冊がキラキラして子供たちの お願い事が書いてある。 七夕の短冊に書く子供の願いは微笑ましい、「いいことたくさんありますように」「お絵かき上手になりますように」ここらへんはポヒュラーである。 よく見ると面白いのもある。

「字が書けるようになりますように・・・」???誰が書いたんだよ・・。

去年の4月 退院してからはお散歩の日々だった。  唯歩くだけなのに 色々な発見がある。 歩くだけ、小さな日常の出来事でさえも 貴重なことのように思えるようになった。  今あることが幸せ、やるなら今しかねぇ・・66のオヤジだ、未来が短いみたいな考えになるから 病気は哀しい。 (読みやすく編集したいが うまくいかん、アレも伝えたい、これも言いたい、長くなると いつの間にかシモネタになってしまう?!!! 新しいカテゴリ「シモネタ」が必要かも?)  

今どきの子供は優しい。 苛める・冷やかす・おちょくる・攻撃する言葉がやさしいのである。 社会がそういう教育をしているのだろうか、いじめで自殺するような子が出るから社会が敏感になってしまった・・・

めったなことを言ってはいけないよ・・と、教えているのである。

昭和の時代、戦後の食料事情の悪い東京で育ったオラの子供のころは いじめも喧嘩も からかう言葉も核心に迫る傷口をえぐるような 厳しい内容であった。

バーカ・カーバ・チンドンや・おまえのカーサン・デベソ・・・

昭和の後期になると

バカって言ったらおまえがバカ、ぶったらブタに良く似てる ブタの結婚まだ早い。

かなり露骨なことを囃したてられても 傷つく子は少なかった。 その程度で傷ついていたら生きていけない時代だから。

だから子供が逞しく育つ、どこの家も皆貧乏で困難な時代、戦争という経験が優しい人間性を育てた、ならば戦争したほうがいいのか・・・やっぱり戦争はダメ、平和が一番だ。 個人的には売春禁止法も反対だけど、そうはいかないだろうな。

①小学校一年生の図画工作の時間にウンコ漏らしたことがあった。 完成した手作りのこいのぼりを持って 皆で町内を一周した? 残酷な運命の記憶である。

「みっちゃんみちみちウンコたれて かみがないから手で拭いて もったいないから食べちゃった・・・」これの絶好のモデルになった。

②ター君の家へ先生から預かった書類を届けに行った、裏庭から玄関に廻るところに犬小屋があった、犬の身長とオラの急所の身長が平行だったのがウンの尽き? 出会いがしらにパクリとやられた。 芯棒と玉二つ、三点セットを丸ごとパクッ!?!・・・である。

ズボンの上からだったから大事には至らなかったが あの時の犬が凶暴で噛む力が強かったら 今日の私は存在しない、子供・孫たちの存在もない。

泣き泣き帰ると母が赤チンを塗ってくれた、これが本当の赤チン・・・である。

アメリカザリガニのでかいやつをマッカチンと呼び 子供たちの憧れの獲物であった。

オラはマッカチンのあだ名で 学校では有名人になっていた。  それなりの修羅場を乗り越えたヒーロー気分もあったが あれはジャストミートのタイミングだったから・・・半世紀後の記憶に残るほど痛かったよ。  昭和の子供は夫々に個性豊かなシモネタの履歴がある。  

Photo_2Photo_3 プラタナスの新芽

晩秋にプラタナスの大木から落ちた実から新芽が出てきました。 木の根から出た芽ではない、種から生まれた新しい芽。

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昭和の腕白武勇伝(1)応援歌

若い頃は軍歌を歌う大人が嫌いだった、世代的格差もあるが会社の先輩やお偉いさん世代が宴会で軍歌を歌うころは そろそろお開きなのである。  オラの世代、若手はそれを聞かされながら つまんねぇ、全然面白くねぇ・・と酷評していたものであった。

ここはお国の何百里 離れて遠き満州の・・・??? 私は日本の歌でこれが一番キライ、これを感無量で唄う年長者の気持ちが解らない、今でも解らない。 メロディもリズム感も 音楽的にはまるでつまらねぇ、暗くて暗くて、戦う前に寒くて腹へって死にそうだ、あんなリズムだから日本は負けたんだよ・・・と思ったりしていた。 

高校生のときに観た「騎兵隊」、ジョンウェイン主演の南北戦争を舞台にした西部劇映画、北軍の騎兵部隊が行進しながら合唱する 映画のタイトルバックの曲

(ホースソルジャース・騎兵隊のマーチ)

♪アイレフトマイラブマイラブアイレフト スリーピングインハーベェド アイウィルマイバックオン マイトルゥラヴ フォファイティングジョーニィレッド アイノダゥンゼイゴーゼアス゛ノーサッチワードアズキャアント アンビーマイヴァクオン ニユーオーリーンズ フォーユリシーズシムプスンズグラント・・・

このほうがずっとカッコよかったよ。 音楽的にも内容も、ただし英語のスペルが分からない、そらで憶えて口ずさんだ歌詞である、(聴覚の記憶・・・かなりいい加減かも)

アバウトに翻訳すると・・・彼女のベッドで一緒に寝てたのに 南部の赤い野郎共と闘うために行くのだ やっつけてから必ず愛する彼女の元に帰ってくるから、俺たちに出来ないという言葉はない、ニューオリンズを攻略するぞ、敬愛するグラント将軍と一緒に・・・。 ジョニィレッドとは南部の奴らをおちょくった呼び方、ちなみに南軍は北部人をヤンキーと呼んだ、これも軍歌なら軍歌はこうでなくっちゃ・・・である。 戦いに行くのだから陽気に 景気よく勝つことしか眼中にないとこがいい。 彼女と寝てたのに戦いに行くぜ・・必ず戻るぜ・・・陽気で前向きで・・・・ここがアメリカ民族の強さなのだ。  戦時中の日本だったら不謹慎でケシカラン・・と、問題になる歌詞である、そんなことだからダメなんだよ・・・と云いたくなるのよ。 

昭和20年、太平洋戦争が終わった、焼け野原になった東京の街に やがて進駐軍が持ち込んだジャズが流れて、それを聴きながら育った子供たちは いつの間にか憎い敵国のはずのアメリカが好きになってしまった、ジャズという音楽文化のファンになってしまった。

威勢の良い軍歌の行進曲、「錨を挙げて」のほうが軽快で爽やか、「軍艦マーチ」に意気高揚とするのはパチンコ店へ行ったときくらいだった。  どこの学校の吹奏楽部も校歌のほかにヘィグッドゥウェーマィボーィ「錨を挙げて」は必ずレパートリーにあった。 若者にはアメリカンマーチを心地よく受け入れることができたのである。

不良オヤジの雑学 アメリカ南北戦争は 革新的な北部工業地帯と保守的な南部農業地帯の戦争、 南軍はリー将軍、北軍のグラント将軍は戦後大統領となる。

人民の人民による人民のための政治・・・リンカーン大統領の演説もこの時代である。  慶応義塾を創設した福沢諭吉先生の有名な言葉「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず・・・」これはリンカーンの名言に似ている・・・天は人の上に人を乗せて人を造る・・・慶応をおちょくっているのではないが 当時のオレらには この方が真理であった。

 幕末には 龍馬のように若き志士たちが天下国家を論じたのであろう、 神宮の試合が終ると祝勝会または反省会、どちらかの名目で飲み会の有志を募る。  全学連、安保闘争とか、学生運動が盛んな時代であった。 飯田橋辺りの居酒屋では 日本の将来を語り合うグループもいたが オラも仲間たちも 皆基本的には親のスネをかじる連中だったが体育会系軟派研究会、似たもの同志が集まって いい女の情報交換に熱心であった。 国家を憂い軍歌が嫌いとかいうレベルではない、音楽的に軍歌というジャンルについていけない、ジャズに親しむことが時代の最先端を行くようで 進取の気象質実の風 青年日本の代表者、パイオニアの気概を持っていた。 要するに日米安保に興味もなかった、意味もよく知らなかった、同学部の女子大生◎○さんはキレイだけどアホだ・・とか、あの子はなかなかいい子だ・・・とか、女談義がメインテーマ、バイトの情報交換、リーグ戦の試合内容と酒の肴の内容が大事なのであった。

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戦後の焼け野原に進駐軍が持ち込んだジャズが流れ それを聴きながら育った子供たちが

やがてプレスリー、ビートルズ、Mジャクソンのポップス系にも流れてゆく。

イェーイ、ウォー・ウオーの元祖は彼等である。 軍歌を唄う大人たちはそれをおちょくって イェイェ・・ウォ・ウォ・・・を家々、魚魚・・・と解釈していた。 古い歌手がこれをやると 本当に家・家、魚・魚(ハウスとフィッシュ)になるから 若者からみると それがダサくてむしろ面白かった。 

軍歌は大人たちには 昭和の時代を懐かしみ、自分を労う応援歌だったのだ。 

オラたちの世代は「軍歌」に相当するのは野球の聖地「神宮」で歌い聞いた「応援歌」だ。

これを懐かしむと他校の校歌・応援歌にまで涙出ることもあるから・・・バカだねー。

対戦相手の校風や応援歌をおちょくって 野次り、先輩から伝承された伝統的な替え歌まで色々アレンジしたものであった。 

例えば 慶応 テイノー・テイノー・リクノモウジャ・テイノー・・・

早稲田 ヤセタ・ヤセタ・ヤセタ・やせた・やせた・やせた・死んだ・・・

ホーセー・オオマタマケタ・・・ときやがった。 

六大学全部にそれがある、中には名作もあった、何故か東大だけはそれを揶揄する替え歌がない、ムキになって野次る必要もない、東大だけはお得意さん、安全牌だからである。 勉強で対抗しないから せめて野球は絶対に負けない自信があったから。  

法政の応援歌に野球専用で詩の内容がいいのがある。 これはおちょくりようがない傑作である。「制覇を誓いて鍛えし腕(カイナ)見よこの振興の気概、恐れぞ無き力持って 征け・闘え・・破れ堅塁を・・」    

立教 St,Paul,s will shine tonight ・・これもお洒落で良かったね。

子供の頃、東京地区には「えんがっちょ」という不滅の大ヒットがある、昭和の後期には幼稚園児を対象に一世を風靡した「カラスの勝手でしょ・・」志村ケン作詞の大ヒット曲もある。

全部出すとまた長くなるから 次回に。

◆余談 また余計なことまで思い出してしまったが 大学卒業式の夜 共にヤンチャな遊び仲間4人で渋谷のバーへ祝杯挙げに行った、紅一点(女と分類していなかったが)ノリちゃんが目を真っ赤にしている、化粧が落ちて黒い涙? ナンダその顔?  校歌斉唱の時 初めてガツンときた、急に涙がこみ上げた・・・、しおらしいこと言うじゃん、女の子みたいじゃん、 シッツレーねぇ!私は女性ですから、・・今日くらいはメイクするわよ! むっとして ハイボールをガバガバおかわりしていた。 最終学府の旅立ち、振り返っても もう戻れない、そこのところが心を揺さぶった、アイラインが頬を流れるほど涙が氾濫したのである。   

小中・高と三度も卒業を経験したのに「仰げば尊し」で泣いたことはなかった、誰でも皆同じ心境である。 後に子供たちが幼稚園行く年代になると「いつのことかな思い出してごらん あんなことこんなこと あったでしょ・・・」この歌は名曲である、かなりの確率で親と先生のほうが号泣するようになっている。

 

将来、孫たちが大人になった頃、宴会で軍歌を唄う年長者がいない、戦争という哀しい出来事は人類の記憶の範囲から忘れ去られる時代になって 世界中どこの国にも軍歌のない時代になるのが 一番いいけどね。 平和とは そういうことが長く続くことなんだね。

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