カテゴリー「多摩川釣り紀行」の4件の記事

多摩川釣り紀行(3) 

◆青春の多摩川 

(1)幼い恋の思い出

小学5年生の頃だった、同級生ヒカルちゃんという 当時では珍しい洒落た名前の女の子がいた。

家も近所で 親同士も仲良しだった。
彼女は積極的だった、オレはガキだったがこの年代は女の子の方が遥かに精神年齢は高い。

二人で お弁当とスケッチブックを持って 田園調布まで電車に乗って、多摩川台公園を散歩してから 多摩川の堤に登り 二人肩を並べて写生をした。

オレは女子と行動を共にするのは 照れくさくて嫌だったのに、彼女の方には その時既に恋愛感情が芽生えていたのかもしれない。
河原には黄色い菜の花畑が広がっていた。

彼女はその菜の花畑の絵を描いていた、オレはその向こうに流れる多摩川の絵を描いた。

流れの中には川漁師の舟が浮かんでいた。・・・

その後 メグちゃんとは大人になっても付き合いが続いている。

高校生の時、二人でバファロー大隊という西部劇の映画を観に行った、

国立競技場へサッカーの試合を観に行ったこともあった。

これはもう デートだった、お互い告白したことは一度もなかったが、・・・・

彼女は 初恋だったのかもしれない。

手を握ったこともなければ、キスをしたこともない、
幼馴染だ・・・、大人になっても続いている親友なのだ、・・・・

お互いがそう思うことで 初恋の感情を封印していたのかもしれない。

泉岳寺の駅でばったり逢って、酒を飲みに行ったこともあった。

彼女と連絡が途絶えて、もう20年以上になるだろうか、

元気でいるだろうか・・・、お互いジジイとババアになったけれど、会えば話が尽きないだろうね。

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(2)マイ・セレナーデ・多摩川バージョン

もう一つ幼い恋があった。

高校時代のガールフレンドK子ちゃん、 同じ大学の付属校で同期、三年間の長い付き合いだった。 野球で大怪我をして 病院通いをしていた辛い時期にオレを励まし 支えになってくれた。 気の合う友達というより 既に恋愛感情だった。

5月のよく晴れた日、学校の帰りに待ち合わせ 多摩川の河原 草の中で弁当を食べる、 

二人分作ってきて そのあと病院のリハビリへ一緒に行く予定だった。 

河川敷のグランドで草野球をやっている、 それを観ながら 彼女が作ってきたお稲荷さんと海苔巻きを食った。

「本当は野球続けたかったんでしょ、悔しいよね・・・」「ウルセエ・・」「やっぱり悔しいんでしょ」「もう野球の話するなよ!」「やせ我慢してるじゃん」「ウルセエよ」「怒ったの?」「怒ってねえよ」「なら・いいじゃん」、「今度“地下鉄のザジ”・・・みに行こうよ 」 二人であの頃の封切り映画を随分観た。 アラン・ドロンの“太陽がいっぱい”・・・の美しいメロディに感動したり、ジョン・ウェインの西部劇“アラモ”のレコードを探しにいったり・・・趣味も感性も共通し意気投合していた。

「川はいいね・・・、北上夜曲の最後のところ 

僕は生きるぞ 生きるんだ 君の面影胸に秘め・・・

「♪僕は生きるぞ~のところ、私・涙でちゃうんだ・・・」川を眺めながら ひとりで喋っている。

「今度 ラッパやりなさいよ、トランペットがいい、カッコイイよ・・・」

オレは応援団ではない、トランペットに触ったこともない・・・

「大丈夫だよ、私が教える、すぐ吹けるようになる、私パートリーダーだよ・・・」

彼女は吹奏楽部だった。

おなかいっぱいになった、まぶしいほどの青空を見上げながら 群生しているクローバーの緑の葉と白い花の中で カバンを枕に草野球の歓声を聞きながら二人並んで昼寝した。

クローバーは他の雑草と違って抵抗なく横になれる、葉が柔らかいからだろうか、あまり汚いと感じない。 

しばらくして横を見ると彼女は眠っている、クー・クー・・・と本当に気持ちよく寝ている。 据え膳食わぬは何とかだ・・・今ならそういう感覚だが、そのときは違う、本人は若く純情だったから 使命感に燃えて一大決心。 

こういう場合は男が行動しなければ・・・オレは男子だ、この機を失してはならぬ!? 

それが彼女に対する仁義?・・裏切ってはならぬ、・・そんな律儀に考えなくてもいいのに、試食コーナーで 美味そうなものを一口食べる感覚にならないところが 清純か?

昭和の中期、武士道というか 男が主導・・という伝統的思想の残り火が まだ社会的にくすぶっていた時代でもあったから。

彼女のほうへ寝返りをうって 頬杖をつき 彼女の寝顔を近くから眺める、

顔が近づく・・・、彼女の唇に自分の唇を近づける、ちょっとだけチューするつもり・・・!?

おいなりさん食ったのに臭くない? 甘~い匂い・・・、初めて女性の顔をきれいだと思った、女の匂いを感じた。 いくぞ・・・!の感じで 唇を重ねた、

ところが 彼女は急にびっくりしたような目を開けて 顔を振り 予想外の拒否反応!?

急に顔を横に振ったので 鼻がぶつかった、歯もガチンと当たった、

痛ッテェ!・・・

こっちがびっくりして 慌てて元の姿勢に戻り 横を向いて寝た。 

「 あのねー!・・・いま・何で そういうことするの・・・?」

「好きなの?」・・・「 ん・・」、

「かわいいと思う?・・・」・・・「 ん・・」

オレの耳元で いたずらした子供を叱るような口調で言う。

  「 ん・・・」彼女の問いに「 ん 」とだけ答えた。

「 なら・いいけど・・・バカ!・・・」 

「ならいいなら いいのに・なに怒ってんだよ・・」

「だからぁ・・・なんでやめちゃったの?・・・バカ!・・・・だからバカー!・・・」

失敗したー、それなら押さえつけてでもキスしてやればよかった。 

「私はいいのに (あんたが)好きだから、・・・だから・どーしてやめちゃったの?・・・バカー・・・!」 

オレだって(おまえが好き)・・・

「だったら・ だから・なんでやめちゃうの・・・バカー!・・だから・バカー・・」

イヤがったからだろ・・・

「だから・・・・なんでやめちゃうのよーって、云ってるでしょ・・・だから・バカー!・・・」

やめたら なんでだめなんだよー、もっとやれってのかよー!

「そんな言い方しなくたって、・・・ だからー・いいのにー・! やめなくて いいのに、・・・だって・やめちゃうから、・・・なんで?・・ バカ!・・・だからぁ・バカー! 」

だからだからって・・?・だから 何が云いてんだよー

「 だからぁ・・何云ってるか 分かんなくなっちゃうでしょ・・・だからバカー!」

おまえにバカバカ言われたくねえ、いつもオレが勉強教えてやってるだろ、このバカ!

こっちも少しむっとして起き上がった、そういうことなら事前に伝達してくれれば それなりに当方も濃厚で誠意ある対応ができたのにー、

中途半端だねー! 17歳だ、後味の悪い消化不良のファーストキスの思い出だ。  

互いに複雑な家庭の事情を抱えていた、オレも目標定まらずふらふらと頼りない時期だった。 夫々に相手の幼い涙をどこまで理解していたかどうか・・は分からないが、

その年末、突然彼女は電話一本で別れを告げてきた。 

インパクトが強すぎた、純粋な少年の心を引き裂く「冬の稲妻」だった。 

今でも消えることのない衝撃の記憶になった。 

この時期がほろ苦い青春の涙の原点になった。

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あれから五十年も経ったのに 「だから・バカー・・・」を思い出すと笑いが出るが、同時に涙も溢れるのである。

K子ちゃんは読書が好きな文学少女だった、詩集を色々集めて読んでいた、自分でもノートに詩を書いて 時々オラに見せる。 

椿の花が落ちた  白い大きな花の玉が コロコロ転がって        ちょっと横向いてとまった・・・(以下略・・この先は忘れた)

オレ流評価では なかなかセンスのある シンプルでかわいい詩だった。 

あいつが好き あいつが大好き やさしくてドジでバカだけど あいつに会うときが幸せ 

あいつに会いたい 今日も明日も明後日も あいつに会いたい いつも会いたい 私はあいつが大好きだから いつも幸せでいたいから・・・  

(ウマイ・エライ! 彼女の詩集の中で最高傑作、 百点満点です・・・)

そういうことなら もっと早く言えよ・・・バカ!、

だから バカー・・・の想い出を 詩にしている。  

だからお前もバカなのだ・・・といいたい。 ! 

この詩の部分はインクが紙に滲んでいた、書きながら涙がこぼれたのだろう、

気に入った詩を書き写したり自作を書いたノートをめくりながら 

「ね、これ読んで、 あたし これ涙でちゃうんだ・・」と、何箇所かページをめくってオレにも読ませていた、感性の豊かな子だ、同じページに二人揃って涙することもあった。 

夏休み 湘南の海水浴場のボート屋で 二人で一ヶ月のアルバイト、このときも色々あったが、書き出したらきりがないから 省略。

あのノートは 翌年我が家の引越しのドサクサで夏の思い出と共に消滅した。 

あれから半世紀も経ったのに 彼女のことを語ったらきりが無いが、涙もきりが無いほどだ。 

匂いやさしい白百合の 濡れているよなあの瞳 想い出すのは 想い出すのは 北上河原の月の夜 

北上夜曲は昭和のロマンだ、日本のセレナーデです。 

水の流れに花びらを そっと浮かべて 泣いた人 忘れな草に 返らぬ初恋を 想い出させる 信濃の旅路よ  「千曲川」もセレナーデ、

どちらも 白百合、忘れな草・・・初恋を思い出させる可憐な花と、ロマンチックな情景なのに 多摩川の河原には 雑草とクローバーの白い花と 花の終わったタンポポの丸い綿帽子くらいしかなかった、そばには犬のウンコまで落ちていた。 オレ流セレナーデThis is My serenade「多摩川恋歌」だから こんなもんでいいか。

あのウンコ もしも踏んでたら・・・またバカー!の連発が始まっただろうな。  

(なんで こんなこと思い出すのか、 五十年も昔のことなのに、こんなこと憶えていても なにがどうなるものでもないのに・・・昨日の晩ごはん 何だったか忘れてるのに・・・典型的なボケパターン? )ところで、上戸彩ちゃんが 私の前世は イカだって!?へこむよ・とぼやいていた、オレだって初恋の思い出が犬のウンコだ!スゴイよ! へこまないけどね。

9月14日 センター南駅前広場で秋祭り あじさい寺正覚寺で 素敵な詩を見つけました。

 生命の泉

人の世の苦しみに泣いたおかげで

人の世の楽しみに心から笑える

打たれ踏まれ唇を噛んだおかげで

生まれてきたことの尊さがしみじみ分かる

醜い世に思わず立ちあぐんでも

みてごらんほらあんなに青い空を

皆が何も持っていないと嘲けても

皆が知っている美しい本当に尊いものを

愛と誠と太陽に時々の雨さえあれば

あとはそんなに欲しくない

丈夫な体と ほんの少しのパンがあれば

上機嫌でニコニコ歩きたい

それから力一杯働こう

そして不平は言わず

決してひるまずに進んで行こうよ

何事も相手の身になって物事を考えよう

何処かに不幸な人がいたら

どんなことでも力になってあげよう

すっかり自分を忘れてしてあげられたら

もうそれできっと嬉しくてたまらないだろう

朝お日様が昇る時挨拶に

今日もやりますと叫びたい

夕べお日様が沈む時は

夕焼空をじっと見つめて坐っていたい

心にはいつもささやかな夢を抱いて

小鳥のようにそっと眠り

暇があったら古い詩集を紐解いて

ひとり静かに思いにふけりたい

幸せは自分の力で見出そうよ

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作者は 小安国民学校学童・・・となっていた。

第二次対戦中 横浜の学童が この寺へ集団で疎開したときの作品である。

お寺の井戸の前だった、生命の泉・・・である。

子供たちにも 水の大切さ 命の尊さが分かるのである。

小学生の作文(誌)なのに よくこれだけのことが書ける・・と、感動してしまった。 

戦争の悲劇を体験した昭和の子供は 辛い体験から優しさを学んだということが伺えます。

悟りを開いたお寺の坊さんの書いたような文章で、作者が本当に子供だったら これは素晴らしいことだ。  前向きで夢がある、未来への希望がある。 この精神が戦後の復興と今日の繁栄の原動力、昭和のエネルギーになったのだ。

人は悲しみが多いほど 人にはやさしくなれる・・、

小さいときに泣くのを我慢した子は 大人になってから涙がいっぱい出るようになるんだよ・・・後の大人たちが 昭和に体験した戦争という悲劇から学んだ「優しさ」という人間性を 角度を変えたことばで表している。

オレは こういうのにジーンとくる、この詩をあいつに見せたら あいつもジーンとくるだろうな・・・と思ったら、また改めてジーンときてしまった。

だから バカ・・・だから。

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ここでちょっと脱線「不良オヤジの雑論」

基本的なボケ・痴呆症は 昔のことは記憶しているのに 昨日のこと つい最近のことを忘れる・・・というのがあるが、オレは研究したわけでもない、確証もないが、勝手な推理、自己流見解でいうと 記憶に残ることとは それだけインパクトが強いからである。 忘れた昨日のことは インパクトが弱い、大したことでないから忘れる・・・

三十年も五十年も大昔のことを忘れられない・・・というのは本人にとっては 強烈な大事件だったから記憶に残ってしまうのです。  子供の頃は 戦争から戻ってきた大人に戦争ボケという言葉があった、目の前で爆弾が破裂したり人が死んだりを目撃するから その記憶が消えないのである。 涙は悲しい辛いときばかり出るものではない、嬉しいとき・感動したときのほうが涙は沢山出る、 オラの場合は 若い頃の思い出で涙することが多くなってきた。 それも一種の老化なら それを阻止するには 元気に動いて 毎日ハッピーで バカ云ってお笑いやってるのがいいね。  

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多摩川釣り紀行(2)

◆多摩川の思い出 

オレの釣り ホームグランドは多摩川である、多摩川へは何回足を運んだだろうか、

100回どころではない、子供の頃から数えたら、1000回以上にもなるだろうか、

多摩川のことなら 何でも知っているつもりだが、行くたびに新しい発見がある。

去年まで渡れた浅瀬が 今年は渡れなかったり、浅くなったり、深くなったり、早くなったり、ゆったり流れたり・・・、川は季節の流れとともに、形を変えるのである。

自然は 生きているのである。

オレはこの川が好きだ。

この川はオレのふるさとだ と思う。

都会の川は汚いといわれる、でもオレはこの多摩川を 汚いと思ったことはない。

アユをはじめ ヤマベ、フナ、コイ、ウグイ、ウナギ、ナマズ、モロコやドジョウ、・・・上流に行けばニジマスにイワナやヤマメまで棲息している。

一度だけ、サケに出会ったこともあった、夏の終わり頃だった、水に浸かっているオレの足にゴツンとぶつかった大きな魚がいた、サケだった。

体中ボロボロになりながら 上流へ向かって最後の力をふりしぼるように泳いで行った。

ガンバレよ・・・、応援したいような気持ちでオレは彼を見送っていた。
最近では 多摩川のアユの溯上は100万尾だという。

都会で こんなに魚影の濃い川は他にない、多摩川は清流なのである。

初めて多摩川で釣りをしたのは 小学校3年生の頃だった。

親友のキム君(木村君)と二人で 竹竿を一本とバケツを持って出かける。

多摩川大橋の下流、砂浜があって、砂の中からエサのゴカイを獲る。

それでハゼ釣りをするのである。

潮が引くと、広い砂浜にアサリが顔を出す、掘らなくても貝が出てくるのである。

バケツは そのアサリを拾って入れるためのものである。

釣れた2~3匹のハゼとバケツ一杯のアサリを持って 意気揚々と帰る、

母がそれで味噌汁を作る。

食糧難の時代だったから、獲物は必ず持って帰ったのである。

キム君とは何をするにも一緒だった、竹馬の友だ。

学校へ行くのも、帰るのも、遊ぶのも、勉強するのも、いたずらして大人に怒られるのも、

自転車に二人乗りして ドブに落ちるのも、二人一緒だった。

毎週日曜日になると 二人で多摩川へ出掛けた、

キム君は“大きくなったら飛行機のパイロットになりたい”と言う、

オレは“野球の選手になる”と言う・・・・。
川面にキラキラと輝く真っ赤な夕陽を浴びて 二人の少年は釣り糸を垂れながら遙かな夢を語り合った。

桜が満開の頃だった、ヤマベはこれから初夏に向かって産卵期を迎える

産卵の前は 特に食欲が旺盛になる、いわゆる“のっこみ”の時期になる。

ヤマベは一年中釣れるが、春(のっこみ)と 寒い冬に向かってだんだん深場へ移動する前に栄養を蓄えるため貪欲に捕食する秋が 一番釣れる時期なのである。

いつものポイントで水に入っていた。

『おーい』と オレを呼ぶ声が聞こえた。

振り返ると 60歳くらいのオッチャンが自転車を押しながら河原を歩いてきた。

自転車の荷台に竿を積んで、彼は鯉の釣り人であった。

『魚を少し分けてくれませんか、鯉の餌にするんです・・・』というのである。

『いいよ、どうせ川へ戻すんだから・・・ 』オレが無愛想に返事する。

オレはその時 鯉がヤマベを喰うことを初めて知った。

水から上がって フラシをオッチャンに渡すと、彼はニコニコしながら釣ったばかりのヤマベを袋に入れはじめた。

『わぁー、いっぱいいるね・・・、20匹くらいもらっていいですか、 これ、帰って冷凍しておくと後でまた使えるんだよ・・・、あんた よく釣るね・・・、オレ 毎日来てるから いつも見てるんだよ、こないだ奥さんと一緒に来てたでしょ・・・、

仲がよくていいね・・・、』 魚を選別しながら 気さくに話しかけてくる。

そうか、オレの釣りは観られていたのか、そういえば 先週は母ちゃんと二人で このポイントに来ていた、妻が釣りに興味を持ってくれたのは オレにとって嬉しいことだった、

自分の趣味の理解者になってくれたことが、なにより嬉しかったのだ。

『女はだめだよ、世話がやけて、面倒みるのが大変だよ・・・、』

オレは格好つけて そんな返事をした。

それから一服しながら 釣り談義が始まった、ポイントの話とか、河川の工事のこととか、

いろいろと情報交換をした。

上野の不忍池から鵜の大群が飛んできて、小魚をみんな喰って行っちゃった・・とか、
確かにそんなこともあった、鵜の大群が来るとヤマベなんかはひとたまりもない。
鵜やカモメが急降下して水面にダイブしてから 魚をくわえて飛び立つのや、白鷺が魚をクチバシにくわえて浅瀬を歩いている姿を オレは何度も見た。

一時的ではあるが、鵜が飛来した水域に ヤマベが一匹もいなくなることがあるのである。

オッチャンが言うには、オレのような釣りは 若いうちしかできない、歳をとると 鯉の投げ釣りのような 動きのない釣りになってしまう。

オッチャンの言うとおり、オレの釣りは“動”の釣りだ。

冬は水の中に入って 一点集中だが、夏場は浅瀬を歩き回る。

相当に体力を使う。

夏は脈釣りが主体である、オモリのガン玉をコツコツとずらせながら 流れの速い水底の 石の上を探っていくのである。

流芯に近いほど 大物がヒットする。

ウキ釣りのように魚が喰ってくれるのを待つのではなく、魚の鼻先にエサを持っていく、エサを喰わせにいく積極的な釣りである。

毛鉤釣りもやった、竿を正面から振り込み、下流へ扇型へ流す。

これはむこう合せである、魚が毛鉤を昆虫とまちがえて飛びついてくる。
ブルンブルンと心地よい振動が竿に伝わる。
毛鉤釣りは 夏の朝と夕、魚がライズする時間帯が一番釣れる。

一度に5尾くらい掛かることもある。

確かにオッチャンの言うとおりだ、オレはいつまでこの釣りを続けられるだろうか、

歳をとったら、リール竿を立てて、河原の草の上に寝そべって、ひばりのさえずりを聞きながら 空を見たり、オッチャンがオレを見たように 遠くの釣り人の姿を眺めたりしていたほうが のどかでいいのかな・・・・、なんて思ったのである。

オッチャンとは その後2~3度会った。

会うたびに魚を分けてやった。

お互い名乗ることもないから 名前も知らない、釣りという共通の話題だけで語り合ったのである。

多摩川では いろんな経験をした、

夏、にわか雨に降られた時、雨と晴の中間に立ったこともあった、自分が雨に濡れているのに 10m先の河原は晴れて 石が乾いているのである。

稲田堤のへんで 身長くらい伸びた草をかき分けながら歩いていたら、40~50cmほどの大きな鼠のような動物に出くわした、相手はびっくりして キーッと一声鳴いて、水の中にドボンと飛び込んで姿を消した。
オレもびっくりして足がすくんだ。

何だろう、鼠にしては大きすぎる、モルモットかイタチか、カワウソか・・・、

カワウソが多摩川に居るはずがない、
それとも河童か・・・?

昔の人は ああいうのを河童だと信じていたのかもしれない。

兎に角、わけの判らない生き物がいたのである。

多摩川には まだまだ不思議な自然が 沢山あるのだ。
自転車で関戸橋の上流、日野の浅川の方まで行ったこともあった。

川虫を採集して玉ウキでヤマベを釣った、アユまで釣れた、

アユは水底の石についた苔を食べる、川虫のような生き餌を喰う話は聞いたことがない。

自転車で多摩川の土手を乗り回していた頃は 行動範囲も広かった。

釣りが終わると、河川敷のグランドで草野球を見物したり、

夏、わざわざ自転車で会社へ行って、帰りに多摩川へ寄って、夕暮時に毛鉤釣りをしたこともあった。

多摩川へ行くと オレは少年に還るのである。
疲れを知らない子供のように、生き生きと、行動的になるのである。

1月7日、正午をまわった頃、竿を納めた。

釣ったハエは150尾を超えていた、もっとがんばれば200は確実の大漁だった。

ずっしりと重いフラシを水に入れて 魚をリリースした。

“今日は遊んでくれてありがとう・・・”

魚たちに話しかけていた、疲れは感じなかった。

家に帰ると 昭和天皇が崩御したニュースをやっていた。

オレは罰当たりなのだろうか・・・、天皇陛下が死ぬという時に、釣りという殺生をしに行っていた、でも 魚を殺してはいない、みんなリリースしたんだ。

夜、ごはんの時に酒を飲みながら、自分に都合良くいいわけをしながらニュースを見ていた。

昭和天皇は歴代の天皇の中で 一番苦労したのかもしれない。

外国と戦争して、初めての敗戦を経験したのは 昭和天皇だ、

日本国の象徴として、初めて人間扱いされるようになったのも昭和天皇だ。

貧相な ただの老人だけど、あの手を振る姿は なぜか憎めない、

日本人なら、昭和天皇を嫌いだなんていう人はいないはずだ。

みんな昭和天皇が好きなのだ。

なぜか悲しくて 涙が出た。

あんなにいい釣りが出来たのに・・・、最高の一日だったのに、

天皇とは何の所縁もないはずなのに、

悲しくて、寂しくて、やるせない気持ちだった。

日本人にとって、天皇とは 父のような存在なのだろうか・・・・、

やっぱりオレも日本人なのだ。

昭和が終わった・・・、

時代は平成へと 移り変わったのである。      つづく

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多摩川釣り紀行(1)

(1)真冬のハエ釣り

◆昭和64年1月7日、昭和天皇が崩御した日である。

朝3時半に起きた、テレビをつけると深夜なのに臨時のニュースをやっている。

昭和天皇の様態が急変した、危篤状態だという。

宮内庁病院へ皇族や政府の要人が 続々集まったりしている様子を伝えている。

何ヶ月も前から危険な状態が続いていた、血圧が35だとか、36だとか、毎日のニュースになっていた。

普通の人なら とっくに死んでいるが、最先端の医療で なんとか今日まで生きていたのである。

“天ちゃんもいよいよだめか・・・”

なんだか寂しい思いになりながら、オレは練りエサを作っている。

台所で 一人で早い朝食をしてから、おにぎりを2個作る。

前日までに準備していた仕掛けや装備を再点検する。

5時30分、まだ暗いうちに出発した。

多摩川まで歩いて30分、宿河原の土手を降りて ウインドブレーカーの上下に着替え、その上から防寒の長靴を履く、胸まである5ミリのウレタンの胴長である。

釣り用のベストを着て、耳まで隠れる毛糸の帽子をかぶる・・、手袋をはめる。

真冬の釣りは重装備である。

幸い風は弱いが 冷え込んでいる。

準備ができて、宿河原の堰から下流へ2~300メートルのポイントまで 20分ほど河原を歩く。

この胴長は凄く便利だ、水の中も河原の石も草むらも、 

なにも気にすることなく装甲車が進むように歩くことができる。

オレ専用のポイントは、 上流100メートルくらいのところに速い流れの荒瀬があって

速い流れは対岸のテトラにぶつかり 手前に跳ね返り、

こんどはゆっくりと蛇行して下流のトロ場へ向かっている。
ポイントへ着いても ベテランは急がない、

ウェストポーチの帯に 練りえさのポンプ、ハエジャッカーシステムを装着する、

フラシ(ビク)を腰にセットする・・・、竿をだすのはそれからだ。

夜明けの時間に合わせるように ゆっくりと身支度をして、仕掛けをロッドに結ぶ。

6時30分、東の空が明るくなってきた、水面に白い湯気が立ち昇る、

冬の無風状態の時に よくある現象である。

水と空気の温度差によっておこる・・・、水の方が温かいのである。

あたり一面 乳白色の靄(もや)に包まれる。

幻想的な 冬の夜明けだ。

異次元の、おとぎ話の中にいるような、乳白色の世界・・・・、

視界は10メートルくらいか・・・、

聞こえるのは 流れのざわめきだけ、河原には自分の他に 誰もいない・・・・。

静寂の中に 一人佇む。

真冬の釣りは、静寂の世界に 自分が溶け込んでゆくのである。

流れのざわめきにアクセントをつけるように、ときたま水鳥の鳴き声が聞こえる、

人間社会のしがらみを忘れ、自然の中に身を委ねる・・・・・、

至福の時が訪れる。

夜明けと同時に川の中へ入る。

腰の下あたりまで水に浸かって、足元に 海釣用の大きな玉うきを浮かべる、ポイントがずれないように 自分が立っている場所の目印だ、船のアンカーと同じだ。

これは自分で考案した。

ロッド(竿)はダイワのアモルファス・ウィスカー、超軽量の先調子『ハエ・硬調』55g

4.5メーター・・・、オレの宝物である。

天上糸に接続したライン(道糸)はシーガーエース04号、

黄色の発泡ウキに シズ(おもり)は4点直線打ち、

ハリはハエスレ3号、ハリスは03号・・・。
エサはピンクのハエネリ、バニラエッセンスの甘い香りが漂う、

装備から仕掛けまで、最先端の超ハイテクシステムである。

一投目を投じる、タナ(水深・ウキ下の長さ)は90センチ、

緩い流れに乗って、ゆっくりとウキが立つ・・・、

立つと同時に ツンと鋭いアタリ・・・、

グイッと力強い重量感が伝わる、ブルブルと小気味良い感触とともに柔らかいロッドを満月にさせながら、銀鱗が水面に跳ね上がる、

ハエだ・・・・、12㎝クラスのシラハエだ。

第一投目から本命のハエがヒットした。

装備も仕掛も、エサも、全部 ハエ釣りのためのものである。

“ハエ”、学名はオイカワ、 関東では“ヤマベ”、関西ではハエと呼ばれる。

北海道を除く、日本中の河川に生息する。

大型でも15㎝くらいの小さな魚、いわゆる雑魚である。
川の鰯(いわし)とも呼ばれ、川魚の中では一番繁殖力が旺盛で、数も多い。

初夏に産卵期を向かえ、雄は腹ビレが長く成長し、赤い婚姻色になる、

この雄を“アカハラ”と呼ぶ地方もある。

練りエサでも、サシ、赤虫、栗虫、川虫、チシャの虫、その他昆虫など 何でも釣れる。

ウキ釣り、脈釣り、毛鉤釣り、フライフィッシング・・・、

釣り方もいろいろである。

貪欲で食いしん坊なくせに 警戒心が強く、動きは敏捷である、

小さいが ヒットした時の引きが強い、数多く釣れる。

釣り用語では“ハエ釣り”と呼ばれる、

オレは関西人ではないが、この魚を冬に釣る時は、ハエと呼ぶことにしている。

夏場はヤマベ、冬はハエである。

鮎を釣る人が ヤマベは雑魚だと言う、

でも オレにとっては ヤマベが本命、鮎は外道であり 雑魚なのである。

冬の魚は深場にいる、冬眠状態である。

ハエも深いところでじっと息を潜めるように 上流から流れてくる餌を狙っている。

魚は 必ず上流に向いている、その鼻先へエサを投入してやるのである。

エサを先頭にして川底を流す、穂先からエサまで ラインは一直線にしなければならない。
流れは水面の方が速い、素人はウキが先に流れてしまうので、ラインがくの字になる。
ラインが弛むと 合わせが遅れる、だから釣れない。

流れの速度と おもりの沈む速度のバランスを考えながら、ウキをすこし戻したりして、ロッド(竿)をさばくテクニックが必要なのである。

海の釣りは 何がくるか分からない、喰ってくれればラッキーという釣りである。

渓流の釣りは“運”では釣れない、技術である。

流れの中からポイントを選ぶ眼と、竿さばきのテクニックである。

深いところから釣れてくる魚は引きが強い・・・、

彼らは息を潜めて、オレも息を潜めて、静かに対決しているのである。

見知らぬ同士の一騎打ちである。

ウキのわずかな変化に対応するために、体中の神経が 張りつめている、集中している。

こんなに ものごとに集中することは この瞬間をおいて、他にない。

忘我の境地とは、こういう状態のことだ。

命の炎が燃えている・・・、自然の中で、オレは今 生きていると実感できる。

好調に釣れた、空振りがほとんどない、入れ食い状態である。

8時を過ぎた頃、少し陽が射したが すぐに曇り空になる。

寒さを全然感じない、よく釣れるので 気持ちが高揚しているからだろうか、

靄が晴れて 対岸まで見えるようになった頃、既に50尾をカウントしていた。

遠くに 他の釣り人の姿が ちらほら見える。

正月から釣りに来るバカは オレだけではなかった。

この時オレは40代の半ば、装備も技術も円熟期だった、自分ひとりでハエ釣りの名人を自負していた。

ボウズという経験がない、どんなに条件が悪くても技術でカバーして成果を上げていた。

釣りは“装備”と“テクニック”だ。

第一に仕掛けをはじめとする道具(持ち物)がよくなければいけない。

そして、技(ワザ)だ・・・。

技は経験によって磨かれる、気象条件や流れや地形にあわせて、ポイントを選ぶのも技のうちなのである。

そのためには 独自の工夫や研究も必要なのである。

オレはこの頃 釣りのノートを付けていた・・・、ポイントやその日の天候、仕掛け、エサの種類などあらゆるデーターを記録していた。

川の地図を描き、ポイントだけでも数十箇所もチェックするほど凝り性だった。 つづく

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二子玉川の駅から見える兵庫島

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多摩川のヤマベ釣り

川にも「川のイワシ」と呼ばれる魚がいます、コイ科の淡水魚で 学名は「オイカワ(追河)Zacco Platypus 関東では「ヤマベ」 関西では「ハエ」「シラハエ」という。 新潟や東北地方では「ジンケン」、夏場 赤い婚姻色になる雄を「アカハラ」と呼ぶ地方もある。

渓流の女王「ヤマメ」「アマゴ」をヤマベと呼ぶ人もいるし、北海道ではサクラマスの子供をヤマベというが オラのいうヤマベは そんな高級品ではない。

体長15cmくらいの小さな魚、学名がザコ(Zacco)だから これこそ俗にいう雑魚である。

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この雑魚を釣りの対象にすると なかなか味があって奥も深い、

小さいが俊敏、ヒットしたときのブルンとくる一瞬の感触がたまらない、細く柔らかい竿が満月になり 繊細な仕掛けから伝わる快感は格別である。

彼らの身上はスピードだ、10mも先から突進し、一瞬のうちに餌を捕食する。貪欲なくせにデリケートで警戒心が強い。 釣り人には 微妙な駆け引きと 瞬発的な反応が要求される。

相撲の勝負に例えれば 鯉が小錦なら ヤマベは舞の海・・・だな。

オラは このヤマベ釣りの自称名人である。  ホームグランドは多摩川、子供のころから数えれば多摩川での釣行は千回以上になる。  ベテランになってからの主戦場は二子橋から是政、関戸橋あたりの中流域、奥多摩の上流域まで足を伸ばすこともあった。

小学生の頃は第二京浜(現在の一号線)に架かる多摩川大橋の下流域で「ダボハゼ」を釣っていた。 生まれた家が「矢口の渡し」の近所だったから・・・(矢切の渡しじゃないよ、あれは江戸川、寅さんの地元じゃ・・・、矢口の渡しは 太平記の話で、新田義興が足利の謀略により船頭の頓兵衛に舟底の栓を抜かれ殺された場所、近くには新田神社も頓兵衛地蔵というのもある、歴史的にも知る人ぞ知るところです。  関係ないことだが 多摩川大橋の建設に携わった地元の醍醐建設の社長 醍醐幸右衛門という人は1958年第25回東京優駿(ダービー)の優勝馬「ダイゴホマレ」の馬主である、 たまたま醍醐建設が同じ町内なので知っていただけのことだが・・・)

人生初めての釣りとの出逢いは “食うため”だった。  オラの“食いしん坊”の原点は この多摩川にあったのかもしれない。

お米のごはんを腹いっぱい食べたい、甘いお菓子を食べたい、肉も食べたい、あれもこれも 食べたいものばかりで・・・、終戦後の 食料事情の悪い都会に育った少年時代の思い出が オラの人生に大きな影響を与え続けているのです。

都会の川は汚いという、昭和三十年代ころから 水質汚染の代表のように悪評高かった多摩川が 浄水場や下水道の完備によって 今ではアユの遡上が毎年百万尾を越える。          

オラはこの川が汚いと思ったことは一度もない、多摩川は清流である。アサリを拾い、泳ぎを覚え、初恋の人と◎○☆し、釣りを教えてくれたこの川がオラにとっては「ふるさとの川」、「母なる川」なのです。

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      (宿河原)

大都市東京の一級河川で最も魚影の濃い多摩川は 首都に残された唯一雄大な自然です。 近年 学校やボランティアの集団が定期的に河川敷の清掃をして、子供たちに自然を守ることの大切さを教えている。  郷土の自然を愛する心を形にするには 一番手っ取り早く良いことだと思う。

自然を壊すのが人間なら 自然を守るのも人間の責任です。  ひとりひとりが ゴミを持ち帰る気持ちになれば 自然は 必ず期待に応える寛大さと逞しさを有しています。

ダボハゼに始まった釣りが フナ・ヘラブナ・コイ・マス、そして海釣りまで・・・遍歴はあったけれど、食うためでなくゲーム感覚としての趣味に変わったとき、ついに“極めた”と自負できるのがヤマベの釣りである。

大人になって何でも食べられる時代になり、おなか一杯食べたい・・・という想いが、美味しいものを食べたいという気持ちに変化したのは自然の成り行きか。女まで食べたくなるのも男の正常な成り行きか・・・(余計なことは言わないほうがいいが)

釣りには必ず外道が混入する、 ヤマベを釣りに行った場合、その釣果の割合は 仮にヤマベが100尾だとすると ハヤ(ウグイ)とフナが5~6尾、コイが2~3匹、アユが一尾くらい引っかかることもある。 これは 川のイワシといわれるヤマベの絶対数が圧倒的に多いことの証しだ。  名人の真骨頂とは 本命の数を限りなく伸ばし、外道ゼロを目指すことです。

城ヶ島沖へ鯵を釣りに行ったとき、小さな鮫が三匹、沖メバル一匹、浅場で喰らいついた鯖が三匹・・・本命の鯵は釣れなかった、これでは落第なのである。

80号の錘(オモリ)を水深100mまで落とす、仕掛けを上げるのに 重てぇのなんのって・・・リールを巻き上げるのに一苦労で、何も釣れてないのに 足の指がツル。  大汗かいて重たい鉛のかたまりを上げ下げするばかりで情緒も何もない、船の上で筋力トレーニングをしているみたいで・・。一緒に行った友人は ボケーっとしていたら カモメが釣れて、(空を見上げてリールを巻く・・・ 彼はもしかして名人かも?)先輩は船酔いで ゲロをコマセ(寄せ餌)にしているし・・・。散々な海釣りであった。

鮎の解禁を待ちわびる人、孔雀のウキを凝視するヘラ鮒おやじ、荒波の打ち寄せる磯で七本縞の石鯛と格闘する人、ルアーでバスを追い求める人、オラたちみたいに舟の上で筋肉鍛えたり、ゲロ吐いたり・・・、

人それぞれだけど、釣りという行為さえ出来れば オラも釣りバカ日誌の浜ちゃんと同じで魚は何でもいいが、どちらか言えば やっぱり川が好きだな、

ヤマベが一番いいな。

(ヤマベの釣りに関しては長編になるから 別の機会に連載する予定です)

Photo_299   ハエ釣り用発泡ウキ(冬場)

Photo_301 夏場に使うウキ

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登戸から稲田堤方面

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